2013年7月19日金曜日

穀つぶしを考える

 
はじめての梅干しづくりは、大麦や菜種をどうするか、大豆畑は誰が?という最中に取り掛からざるを得ませんでした。庭の梅の木は、毛虫やら、いつが採り時なのかもわからず、それを見ているだけでも頭がパンクしそうだったのに、この地域で、もう農業はやめたけれど梅の木があるから、実をもぎに行こうと誘われ、ご遠慮したら、どっさりと段ボールに採ってきて玄関まで運んでくれたのです。だから、、、まだ梅干しはうちの木の実で・・・。もう大混乱。大豆はどうする、芽が出ない。菜種はどう採る土交じり、大麦ノギだらけ、そんなすべてが一度にある季節だったのですね。
 役割は減ったからなんて全然感じられないほど、じたばたしていた5月6月。
ご近所づきあいの深さ、浅さが計れない新住民だし、台所には義母が居着いたわけで、そこが文庫番事務所でもあるのに、葉書もださなけりゃ。と母の住所録も照らし合わせたり。もしかしたらこのまま僅かにはある神経が衰弱しきってしまうのではないかとまで鬱屈していたのかもしれません。
 そんな私を知ってかしらずか、梅を漬け込んだ甕からは塩が滲み出してきました。もしかしたら重石にした庭に転がっていたコンクリート円柱が反応したのかしら?梅酢の濃度を間違えたのかしら?この甕が不良品だったんじゃないとか、それでも一ヶ月、梅雨明けしたら土用干し。
 それなのに味噌の天地返しが終わったら、二泊三日の熊野行きに続いて、横浜での法事。家に居着かない家刀自。それでも梅は香ってきます。
 ちょうど、前の主が置いていった庭のビール箱に乗せて干しています。母のところにいつも梅干しを届けてくれたいた天海さんに、電話で問い合わせ。もう赤紫蘇入れても間に合わないかしら?
 まぁったく、レアちゃん。葉書も着てないよ。どこに引っ越した・・・・。
 上手く仕上がったら送るからね。食べてみて。そんな消息便りもありました。
 
 さて、大豆の追加の種蒔きは7月上旬だったのですが、芽を出してくれました。その前に蒔いたのも順調。私が居ない間は、連れ合いは大豆のところには行かず薪伐りをしていたというので、では草刈に。気持ちよく出てきた豆の芽を褒めて一夜明けて、また早朝草刈りと、昨日の畝を見てみると。またまたカラスについばまれ、せっかく伸びた緑の葉は、情けない破れ葉になっています。
 智慧はカラスにはかなわない。仕方がないから草刈りだけは朝食前の一時間。家に戻って義母に話すと、カラスもがんばっているね。そうなのですね。
 ついばまれた大豆の畝の脇で草を刈りながら、なんとなく楽しいのです。やはり全部が全部自分の分とはならない種まきだったのです。長い間の農耕の歴史で、分け合ってきたのが当たり前なのでしょう。今に限った事じゃないですが、今の経済は無理無理取り分を人間が多くしようと、いつごろからか人類の道としてきている。全然、知識も経験もない最初の大豆。お百姓やっても食べていけない。そういう多くの農民の声は、この営々とした智慧較べ。学ぶべきは、都会の学校じゃなくって、畑の先輩たちです。多くを収穫して市場に出して、そんな農耕じゃない、自分と空の鳥との分ができるようになるのにも、まだまだ掛かるでしょう。穀つぶしとは、誰が誰に向けた言葉なのでしょう。
先日の法要の前に、マハラバの写真を見なおして、閑居山のランプの下での共同体を考えると、あの頃の農村のくらし、周りの集落の人たちは、気持ちにまだゆとりがあったのじゃないだろうかという事。鶏を飼ったり、籐椅子を編んだり、鍬も持って、そういう脳性まひ者が写っている写真の幾葉。家族から自由に生きたいと集まってきた障害者たち。それは奇異に感じながらも容認してくれた地域があって、当時の日本の社会は、まだそういう身体性を持っていて、だからこそ青い芝の運動が、強く広まったのではないだろうかという事です。文庫番自身でいえば障害をもった人たちが居るのが当たり前の世界。今のこの参院選挙前の閉塞感は、あの頃のおおらかさが感じられない異常さです。
 くれぐれも言われていた健全者幻想に捉われるなと。3.11以降。私たちはその幻想が幻想だと見えたはずです。無益な競争社会、金融と扇情に作られた、平均の幸せ。
 だからって、すっかり諦めてはいけないし。カラスと分け合うにしては、この大豆。これはこれで、今の福島への別なメッセージなのです。

 
 

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