2021年1月27日水曜日

志筑の便り


 小学校の帰り道の神社にあった椎の木の、昨秋の実を拾って送ってきてくれた友人がいます。故郷の幼友達。それこそ母が嫁いでいった時から、同じ地域での親同士の行き来があって、意識しないうちから一緒に遊んだ数少ない友。
 今、またその故郷の実家に戻ったといって神社や、小学校のその後の便りを送ってくれました。数年前に千代田公民館であった講演会にも来てくれました。彼女も、また新しい出発をするというのです。そんな近況も、懐かしい場所の話も、様々なことを経て、やりとりすることになるなんて、一緒に学校帰りに歩いていた頃には思わなかったことです。
 この次の同窓会には私は帰る事があるだろうかとまだわからないですが、時間を作ってゆっくりと話したい。
 

2020年12月31日木曜日

庚子 大晦日


 今年の大晦日、目覚めて北側の窓を開けると、月の入りの時刻であったようで、それもほとんど満月 立待ちの月。朝に見る丸い月がまだ光っているなんて、赤地に白い月の丸は花札だけど、今年の終わりの日にふさわしく、感慨深く冷えるのも忘れて写しました。
 文庫番の一年は、横浜の倉庫に預けてあった、閑居山にあった父の蔵書や自分の子供のころから親しんだ書籍の確認をし(窓から見えるのがプリンセス・ダイアモンド号でしたが)、長年の夢というか文庫が出版事業をしている目的である、父の蔵書目録への準備ができたのでした。あと数年生きていられるなら、なんとか進めたい事です。
 社会一般では世界規模での感染症が流行した年で、人々がよすがとするのが、すでに宗教も超え、政治も超え、科学などは追い付けない、ただ寄り添いとか繋がりなどという情緒的言葉で表されています。
 近代の限界があらわになったのでしょう。学校式の教育の意味、施設収容でできる介護や福祉とはどこまでなのか、医療は現実に対応できるのか。近代を肯定してきたものには不安が心を塞いでしまった年だったのではないでしょうか。
 もともとが、近代を、文明を否定していたマハラバの思想であったのですから、ここでたじろぐ必要はないのですが、現実の暮らしの中では周囲に合わせざるをえない状況もありました。
 この一年の間では、一般社会に不適応になるものの在り方をずっと考えていたとも言えます。少しわかったのは、何回も書いていますがマハラバ村というのは、自立した脳性麻痺者自らが作った、作ろうとした共同体なのです。集団生活ではなく、共同体をめざしていたという事の違いを、字面で理解できたのです。数カ月考え続けて、そのように思えたのでした。
 いまさらながら、50年前のことが理解できたということになります。この後の世の中がどのように変容できるのかもとても興味深いのです。
 しかし、きっと月の巡り、天地の間のやりとりからすれば、一刻のことなのでしょう。

 

2020年12月21日月曜日

二〇二〇年 一陽来復



 今年の冬至は、冷え込んで窓から見える八ヶ岳は朝日を浴びて薄紅に見えていました。夕月は土星と木星の接近の様子になるとか。外も家の中も冷えてはいますが、穏やかで静かな日になりました。様々な不安を考えこんだとしても、一陽来復。また日が昇るのです。
 

2020年12月11日金曜日

関わり方を問う 



 文庫番の日常は、主に台所と繋がっている和室の机のパソコンとの範囲で終わるのですけ
ど、野良の時間もある程度必要です。
 今の季節は、畑の腐葉土づくりになるかと、隣集落にある神社の大欅の落ち葉を浚いに行きます。その欅の陰で少しキノコも栽培しています。
 ヒラタケを持ち帰りながら畑の隅に落ち葉を置きます。師走の畑は葉物野菜が中心です。
隣畑の人にタアサイをもらっていたので、ヒラタケのお裾分けをしたら、また頂きました。さらに立派な大根までもらって、ゆず大根の用意をしました。
 うちの畑の人参は、イカ人参の用意です。
 落ち葉とキノコ、そして美味しい野菜へ。わらしべ長者も斯くありか。ほんの会釈程度なのに、なんだかとっても得した気分で、次の朝が待ち遠しくなります。
 村の暮らしの中で、立ち止まります。この村でも、息苦しい思いの人も居ます。そして今も町で、仕事もお金も家も失くした人が、寒い夜を過ごすのです。もしかしたら、兄も仏教界にも、山にも居られないものなのかもしれません。
 先月末は奈良に文庫番家族は出かけました。東大寺の毘盧遮那仏も、薬師寺の薬師如来も観てくることができました。鑑真和上の唐招提寺も、また明日香の地へも。
 権力が、大仏をつくる時、衆生の民は、困窮していて飢えていて救いを求めているのです。権力がつくりだすものは、千何百年残っていたとしても、同時に民の困窮も残ったままなのです。
 村の暮らしの、小さなやりとりで救われるものと思いながら、そこに馴染んで行けない人のこころの裡に灯りをともすには、どのような術があるのかと、思うのです。






 

2020年11月21日土曜日

書き足し パンとあこがれ

  昨日、自分が小学校から帰る頃?それとも長い休みの間か、観ることのできたポーラテレビ小説について書いたことの、足りなかったことのあれこれ。
 文庫番は、春に倉庫で書籍の大部分を再確認して、その目録作成に協力してくださっている島根の先生から、データーを送ってもらったことで、今自分がしているテープ起こしにも内容が関係することなども、麻婆豆腐を食べながら思っていた夜なのです。
 現在起こしているテープは、父の記録としては最晩年の語り、講義テープとなっているもの。ほぼ、同じ内容を二回に渡って連続で語っているのですが、ほぼ同じということから整合性をとりたいと、両方を起こしていく作業です。
 それは、自分が閑居山を下りてからの講義であるので、あらためて、父の思想を体系化するためには、重要と考えているものです。
 そして、その思いとは何だったのか。相馬家の様子を描いたテレビ小説は、父にとって東京府の上馬で敗戦間際まで暮らしていた頃の、祖父母の交流と重なることが多く、特に母親の実家澤山の家は都市知識人などとのかかわりもあり、勤め先だった山陽堂の逸見斧吉が、社会活動の一面もあったことなどを、それとはなく、中村屋の歴史を描くドラマを観ながら、亡命者たちの支援もしていた事にも合わせて語っていたのです。戦前の実業家たちの社会に対しての矜持を学んだのでした。
 その頃テレビがあったのは、マハラバの人たちも観ることのできる八畳の方だったのか居室とした4畳半の方だったのか、明瞭ではないのですが、4畳半にあった、書籍の小型本は春の点検で見られなかったのですが、木下尚江の本などがあったのでした。一番身近に置いてあったのであるとも思い出します。この戦前からの交流は、文庫番にとっての祖父母の居たマハラバの創成期も支えてくれていたのでした。
 そして、あれこれのその他。
 テレビを皆で観ていた、文庫番。確かに家に戻ってであるけれど、そこにいる皆というのは、共同体を一緒に構成していた人たちであるという事。一緒に学び、考え、そこの場をつくっていた人たち。それは、ドラマの中で商家の在り方の中にさらに、亡命者たちとの交流もあり、家族以外の者も一緒にいる在り方と相通ずるものであったのでした。「家」というものが、家族だけで、囲いをつくるものではない社会とも縁のある場だという在り方です。
 それを思い出しながら、瀬戸さんからの毎晩の報告アップにある生活困窮者支援の現在。もちろん、パルシステムも事業の縁側で、支援を続けています。
 孤であっては、自助も共助も公助にも触れることができません。生活支援ということばではなく、ともにある連携としての共助や公助を組み立てていく時代になったのでしょう。公助は、民の力で公を変えていくという事なのでしょう。公からもたせ掛けられるのではなく、良い仕組みをどんどん公の部分に入れていく仕事をされている報告アップなのだろうと、夜遅くあれこれ思い合わせていたのでした。
 旗を振りつづけないと!
 
 

2020年11月20日金曜日

パンとあこがれ


 麻婆豆腐のタレが、生協のカタログにあって、化学調味料不使用の新商品。二袋のうち一つを使って、お豆腐も半丁で。他の献立とも合わせてちょっと中華っぽい夕食にしました。
 新宿中村屋と言えば、カレー、そもそものインドカレー。そう思い込んでいたのですけれど、この麻婆豆腐のタレ、目の周りの汗を拭きながら、連れ合いと私は納得顔。
 新宿中村屋、行きました。都内に住んでいた時は何回も一緒にあの狭い階段を上がって、骨付きチキンの入ったスパイスの効いた味。
 子供時代に、ポーラテレビ小説で宇都宮雅代さんが主人公を演じた「パンとあこがれ」放送時間帯はお昼過ぎであったのですけれど、小学校から家に戻ると皆でテレビのある部屋で、観ていたドラマの最初だったように思います。最初というのは、その頃まで閑居山に電気が通っていなかったので、テレビも無かったのと、しばらく不在だった父も一緒にゆっくりと観ることのできる時間にもなっていた頃、ちょうどこの中村屋の相馬家を描いたドラマを観ながら、父が様々解説をしていたのでした。
 そういえば、マハラバ村について、来栖琴子さんが取材したポーラ婦人ニュースの後番組が、テレビ小説であったということで、私の手元にある幾葉かのその番組の写真のもとになるフィルムが、ポーラ関係のどこかにあるのかもしれないと、その麻婆豆腐を食べた夜に目覚めて思ったりしました。食べ物って、、、いろいろと発想を呼び起こすものですね。
 

 

2020年10月1日木曜日

新米


 いまだに、画像を取り込む問題はこのブログと折り合っていず、Gフォトから直接いれています。
 いろいろな課題があり学びの米作りだった今年の米も、新米を食べられるようになり、ひとまずは安心。水の管理の難しさ。冬の整地の重要さ。そして、収穫に向けての準備。
 今は天日干しの日にちが足りなかったこともあり、各所に配ったお米に、水分調整の不完全を必ず伝えています。それも昨年より送り先を減らしているのです。
 映画ではないですが「苦い米」。労働に見合う喜びは、簡単には得られない。これも、日曜洋画劇場で、淀川長治氏の解説で観たのだろう、父と一緒に数度観た記憶があるのです。父はシルヴァーナ・マンガーノのボディラインを地中海スタイルと、言いながらよく表現していた事も懐かしいです。
 夏の暑さと、米作りは一段落して相変わらず父の講義テープを起こすのが文庫番のお仕事。誰に頼まれたわけでもなく、何の価値があるのか、なんて思うと、それこそ実入りのないことで、投げ出したくなってしまうのですけど、ああ、自由な人だったのだ。と声を聴き、周りの人たちとの掛け合いのような進め方と、そこに傍証として引いてくる書物の見当をテープを聞きながらしていると、つくづくその場に居合わせたかったと思います。ただのおやじのエロギャグか、破戒僧の与太説教かと言ってしまえばそれでお終い。
 そうじゃない、この自由な空間が本来の寺であり、障害者とともに生きるという実践であり、知性の飛翔であり、論の跳躍の力なのだと。
 先日も兄が来て、あまりにも自説に偏った話のみをしていったのですが、この父の深い知識をともに検証できていないことが残念でなりません。半年ほど前に、兄が絶縁を告げに来たと思ったのは、野菜など迷惑だから送ってくるな。ということを伝えにわざわざ出向いてきたと考えています。