2020年3月6日金曜日

倉庫作業


 文庫番は、父のしてきたことを書き纏められるのだろうか。あの時の山から運び出してもらった書籍の類がいったい何だったのか、どれくらいの量を占めるのか。
 30数年を預けっぱなしにしてあったその価値はあるのだろうか。
年度替わりの前に、4日をかけて出向いて行って、自分ではわからない判断も手伝ってもらいながら中身点検ができました。全然知的労働ではない、肉体作業であったといささかの疲れた体が言っています。

2020年2月5日水曜日

ありがとう



 世の中の不思議というべきなのか、山形の准ちゃんから来た連絡は、2月1日に金子和弘さんが喉に食べ物が詰まって亡くなったという知らせがあったというものでした。
 ご自宅にも、入院した時にも会いに行っていたので、体力の変化を嘆きながらも、あれもしたい、こうしなきゃという話を聞いていたのでした。
 最近まで、兄との関係の間に入ってくれていたこともありがたかったです。
 ちょうど、次女の友人からお供えの花が贈られてきていた我が家。祥月命日が、金子さんも亡くなった日となりました。思いを深くします。
 考えると二人とも、人を愛することを大切にしていた人たちです。自分を諦めない。そういう人たちが居る、居たということ。皆に知ってもらいたいと思い、金子さんの娘さんが書かれたご挨拶をアップしておきます。
 マハラバから生まれ出でた人たち皆のことばなのかもしれない。母の写真の前に開き置きました。「だれもが皆同じように暮らせる社会」をめざして運動を続ける人たちは続いていくのです。
 斎場で金子さんのご親族から大変お世話になりました。と言われて文庫番は大慌て、いつも自分が励ましてもらっていたことを思うのです。現在進めている新解放理論研究会も承諾してくれていて、横塚さんたちとのことももっと同じ脳性麻痺者として運動の方向性を語らったということを聞いておけばよかった。盛花には全国青い芝の会からのものもありました。良かった。
 彼らは人柄自体が、前向きで明るさをもって人生を生きてきていたのです。そうでなければ続いてこないことです。そして何より、この感謝の挨拶が、どこにも挫けるようなことばがないのです。また文庫番は励まされました。
 

  
 

2020年1月15日水曜日

マハラバの傍らで



 石蕗に綿毛ができています。マハラバ村の傍らにあった石蕗は、いつのころから願成寺の庫裏に植えられていたのでしょう。武家好みの植物は江戸時代からの末裔なのでしょうか。何を見てきたのでしょう。母が神立のアパートの庭にも移して、母が一回も花が咲く事を見なかったという、それが今山梨の文庫の庭で綿毛を飛ばし次の世代へと伝えようとしているのだなんて、一旦は何かウィルスにでもやられている株だから、燃やしてしまえと考えられていたのだというのに。
 1月になって、やまゆり園事件の裁判員裁判が始まりました。様々な情報が流れてくる中で、私の中で言葉になっていない気持ち。
 自分だけの感情でもあるから、書くことも揺れ動くのだと思うけれど、石蕗のように新しい役割を果たさなければならないのです。
 多くの人が、やまゆり園の容疑者を、有り得る。とか自分がやっていたかもしれないというのを目にし、耳にする虚恐ろしさ。その多くの人の言っている言葉が上滑りにしか聞こえないのです。
 マハラバ村であった事件は健全者(健常者とは書きません)であり、その場を脳性麻痺者の共同体に解放していた、文庫の父が、脳性麻痺者を器物で殴打したという事件です。それまでは脳性麻痺者の解放運動を拡げるともてはやしていたメディアは、何の擁護もしなかったわけです。所詮メディアの語ることはその時々の世相の求めるものなものだと承知して生きてきています。事件については当事者たちそれぞれ語らずして亡くなっているので、傍らにいたからと言って自分が審らかにする事ではないと考えるのです。
 父が服役していた間はあっという間に過ぎていき、それでもなお解放の場を求めて来てくれていた人たち。訪ねてくることをやめなかった人たち。その人たちも今は記憶が朧な年代になり、新しい事件とは別個に観ているのだと思います。
 共同体であればこそ、仲間であればこそ、力づくの場面があり、互いの主張もぶつかり合う、そういう場を社会にもっとつくっていこう。と山を下りた人たち。
 しかしながら、社会は開けていくのには時間がかかるのです。世間の風は冷たいのです。この50年間、教育の場でも、くらしの場でも、就労の場でも。最重度の障害者を、置き去りにする事を仕組みとして、施設収容を事業として増やしてはいなかったのか。人間のもつ自分自身の愚かしさ、醜さを見たくないと、その象徴として障害者を「普通」から隔ててきてはいなかったのか。そういう感情が、やまゆり園事件でまた湧いてきたわけです。突き詰めれば、自分自身の中にあるものをどう認められるのか、その葛藤は「普通」の社会に投げ返されていたのに、今は肢体、言語の障害のみならず、引き籠り、社会参加に対しての個々人のバリヤーも、さまざまな病名で障害とされている時代になってしまいました。
 人は裏切る、組織は裏切る、国家が裏切る、それは人は自分自身を裏切って生き延びようとするからだと、承知した上でなお問わなければならないのです。
 母が閑居山に北海道から嫁いできて、鍬をもって耕して、100本の大根を収穫したのよ。と言ったところは、マハラバ村のプレハブが建てられて、そして今はまた藪に戻っています。文庫はようやく、塩と糠で美味しそうな沢庵を漬けることができる冬となりました。60余年。

2020年1月1日水曜日

庚子(かのえね)


今年も時々日誌更新しますね。

2019年12月23日月曜日

2019年冬至




 畑の周囲に雑草除けに植えてみたワイルドストロベリーの葉が草紅葉で畑の縁取りになっていました。畑の抜き草や、庭の剪定枝を燃やして浄めていきます。
冬至、一年が経めぐって一陽来復。
 必ず時は巡ってくると宇宙の運行は告げているのかと思いたいけれども、それはまだ未解明なのだとも考え、人は人の世を生きているのです。
その一方で刹那という瞬間だけを表すことばも説いてあり、その時々に在ることのみとも、考えていたのだと、少しばかり宇宙と教えの概念を合わせて思うのです。
 そういう、不思議な巡りの中で己であるという事。思うにならない、こころを持ち、身体を持ち、生老病死 四苦八苦を具えながら今の時がある。
 自分だけが苦しくて、他のものの苦しみ痛みはなかなか思いやれない日々ばかり。
 やっと、センゴク大豆の選り分けが終わって、食用にならない大豆も4割がたあって、それを庭に撒いて、鳥の冬の間の養いにするのか、それともまだ見ぬ鶏の餌用に取っておくか、これでともかく、年越しの用意に気持ちが向いていくのです。

2019年12月18日水曜日

只管



 私たちの味噌造りは、もう9年目に入るのだと驚きです。ただひたすらに大豆を選り分けてこの数日を過ごしています。少量です。少量だから手作業でするのに大変だけれども、機械力を使う量はないから、もう一月あまり。
 雨の多い11月、カラッと晴れる日を選んでは干したけれど、夏もまた雨が多く、うまく育っているとはいえません。
 このセンゴク大豆と、もう少しアケボノ大豆を足しても、階段下に置いた味噌桶には僅かな分量になるのは分かり切っています。そうすると上手くは熟成できないし、いろいろと面倒な事は脳裏に浮かびますが、縁の繋がってきたことはこの地域でもしっかりと繋がないと。
 単純に、選り分けて分別するだけの時間があるというのは首も腰も痛くなるまで曲がってしまいますが、自分の都合だけでできる作業。誰からも支払われることの無い、自分だけの対価。だから、ひたすら、これだけを。

2019年12月8日日曜日

玄関に


 伸びきっていた櫟の枝と、南天の実を活けこんでみました。南三陸の〝しおだまり”で買った匂い袋といわきのオーガニックコットンの綿。もう匂いも薄くなっていますが、なんとなく玄関に香りのものを置きたくて長くありました。綿はもう畑の実は開かないのでしょうか。師走になって花殻のあとは固いままなのです。もう霜も降りているからこの量が今年の茶綿の全部でしょうか。雪に見立てるには茶色いのでもうそろそろ片付けてオーナメントなど懐かしみながら出そうかと思います。
 9月以降の、台風や大雨の所為だけでなく、この4年間は10月、11月は気持ちがぐらつきながら、つい4年前を振り返る期間になっているのでしたが、12月はそれでも新しい年迎えに用意をしていきます。そして1月は晴れやかであってほしいのです。
 昨夜は、アフガンで銃撃された中村哲さんの追悼番組を観て、12月8日に日が変わりました。今のこの地上で、平和とは何をさすのでしょう。私にとって平和を願うのは、どういう事になるのか、己亥の師走。あと僅かになります。