2012年7月24日火曜日

ゆっくり、進めば

そうは思っているのですけれど、さすがに一か月以上前の情報を整理しているのは、このインターネット時代にどうなのかとも考えるのですが、マハラバ風土記と日月記をやっと書きました。
そういう躊躇いは文を練っていても出てしまいます。キレの良くない勢いのない文章になってしまうのですが、まずはやっと連れ合いの居る状態で私のペースを作れるようになってきたのと、新しいパソコンにバージョンを変えたソフトを入れてとしている部分と手打ちのも新しい技能でいけたらと欲張っているので、なおさら遅々としています。
文庫番の日常は、ほとんどがご飯つくりです。朝が終わるとすぐお昼。午後にある諸々もご飯の用意を整えるのが前提。その合間のお仕事。言うまでもなく稼ぎにはならないし、金銭には捉われない価値観を持って仕事を!と居丈高に叫んでいるのではなく、普通の事業活動はできないなぁ。とますます状況を見るのですが、少しずつ、大丈夫。なんとかなる・・。?。

2012年7月8日日曜日

新しきバラード




虹が架かった下を通り抜けました。

新しい叙事詩が、見つかりました。

「明日へ帰る」という冊子がマハラバ文庫発刊となりました。

その意味を考えつつ、スベリヒユのお浸しを作ろうと摘んだのです。

その本の中に綴られていた思いを、俯瞰してみたのです。

3.11の東日本大震災の記録集です。

水産加工メーカーさんが、畜産養鶏の生産者が、福島の農産物が、

そして、パルシステムの友好、会員生協が、肉・野菜の子会社が

 食べる消費者が居る、暮らしている組合員が居ると、あの大震災・原発事故の時に

互いに思い合うということは、

食べる側が居て、「買い支える」ということは、いかなる銀行の融資を受けるより

意味があったのです。

いえ、まだ資金繰りも立たないなかで、製造を断念しないで、立て直し、続けてきたのは

あの三月に産直便が、寸断された道路を走って、供給できたのは、

逆に、組合員の出資している生協の子会社の商品を、被災地への支援物資とできたのは

現金として動かす金融であるのとは、別の新しい経済。協同の経済が、瞬時にはじまっていたのです。

競争の原理の復興・再生ではないのです。

もはや、協同のあらたな叙事詩は綴られて謳われ始めていたのです。

そして、さらにそこに見える、新しい歩みがはじめられたのです。

虹の根っこを探しに、こころ踊る歩みがはじめられました。

スベリヒユを摘んで解った事かもしれません。

2012年7月1日日曜日

7月に入って

肝心な、パソコンの液晶を壊してしまった。ので、機能してないマハラバ文庫。
なんと、修理に8万円と告げられたのです。

2012年6月19日火曜日

方丈記を

ゆく川の流れは絶えずして・・、この文章を朗読の稽古の内輪の発表会での題材に選びました。
今、仕上げ校正のものもあるので、充分には練習してませんでした。本日は、朗読の会そのものが台風の影響を考え一時間繰り上げての終了。まさに方丈記の無常の世界のような東日本大震災・そして、大雨、竜巻、季節外れの台風。都の乱れ。
 誰にも大過なく本日も終わる事を願います。
向田邦子「お辞儀」朗読の際の写真を添付しているのですけど。

2012年6月16日土曜日

先へ先へと

新しいページを作成中なのですけど、技術が追い付いていません。梅雨時仕事に少しずつ整えていきます。三年単位です。三周りに入ったのですね。

ユリの開花、芝生の向こう、吊り鉢


 ともかく土づくりからと考えたら、堆肥づくりからとなりました。現在暮らしている狭隘な家の台所で出る生ゴミ堆肥なのです。以前ベランダで数年かけて、ようやく黒くほんわかしたものは3月に梅の木の根のあたりに埋めました。
 ということで、玄関先に義父が園芸資材を入れていた古いプラスチックの漬物桶を移動させ、かつお厚削りの出汁滓や野菜屑をぼんぼん入れて、朝市で買った米糠や、僅かな墨田の土を混ぜ、都会らしくない匂いが出はじめた頃、母のお供えに、古いお付き合いの信州のリンゴ農家さんから一箱届いた春リンゴの詰め物だった有機の籾殻にリンゴの皮・芯も入れて、匂い問題の緩和ができたものを、畑予定の場所に畝を作り埋めました。冬春中庭の草取りをして積んであったものも合わせてあります。
朝市でトージバさんから買った大豆を植えます。
荒れた土地でも大豆からが良い。と義父も言います。本日はその桶に入っていた石灰を撒きました。来週種まきできるでしょうか。私にも何の用事のない日は義父母の山梨見学デーです。
 結構、不定休にした文庫稼業は、皆さんそれぞれが予定を入れるので大変なのです。不定休・無給でしょうかね。
私たちは、このくにの肥やしになるしかない。と考えた話を母にして、新潟で聞いた人間の土葬したところが一番良い肥やしになるんですって。と話したら、そう言われるとカトリックの神父さん達は土葬だったわと、教えてもらったのです。
その意味を今考えると、皇室が従来は土葬であったというのは、この国の土となる責任を果たしていたのだとも思えるのです。衛生上などは遥かに超えて、微生物と神格が一体だったのかもしれません。
火葬になる事を、立派な葬儀にしてしまったのはつい半世紀です。

2012年6月11日月曜日

感謝

 二カ月経って、6月9日「大仏(おさらぎ)照子(あきこ)を偲ぶ会」実行委員長里内龍史さんを軸に行われました。写真には、司会の坂本さんと献杯の天海さん。  プリントアウトしたものではなく、書をいただいての横看板でした。土浦モール505ホール。最初は30人程度と言っていたのが、50人、60人となって、ホールは100人まで大丈夫だからと言われてました。雨にも関わらず大勢の生前の母との交わりがあった方々が出席してくれました。皆さんからの一言一言を、子供達と聞きながら、寺の庫裏を賄うだけ、そして、古アパートを拠点にし、他の人達のお手伝いだけをしてきた母がくすぐったく思ってはいないかと、至らぬ私は考えていたのです。82歳の賄いのおばあちゃんがこんなに大勢の人に、死んでのちにも集まってもらうなんて。讃辞をたくさんいただいてしまいましたが、人との交わりの中で生かされてきたのが良く解ります。私が生まれる前からの父の友人も来てくれていました。そして、この2カ月母の前に花の絶える事がありません。本当に皆さんに感謝するばかりです。  大仏の家の大正期の貧民救済、社会運動や、父との農民運動、障害者解放運動。青い芝の歴史。北海道での母の生い立ち。富良野国の子寮での仕事。信仰。そして晩年のネットワーク。脱原発、冤罪、死刑反対。  この日に冊子となった母の原稿は、マハラバ文庫としてまとめていかなければならないものです。どこまでできるのか、三部構成でと思っていますけれど、今は、義父母の状況を見ながら文庫番の動きを組み立てなければなりません。資料の掘り起こしなどを考えると、即急にと思いながら、ちょっと厳しいかもしれません。  これらの活動、裁判支援などの時間経過を間違って記録することはありそうです。おっちょこちょいの文庫番には荷が勝ち過ぎている記録です。  大丈夫。少しずつやっていれば、必ず前に進めるから。なんとかなるのよ。そのことばを残してくれたことに感謝です。