2008年9月19日金曜日

食育という言葉の難しさ

先日の今治市の食育の講演会は、長い取り組みが実現する事が理解できたのです。ですけれど、前日地元の中学校の給食を題材にした食育の報告を聞いてきた文庫番は、本当に現場である子ども達にとっての意味を考えるのです。給食しか一日の栄養補給が無い中学生と、普通以上に食べる事ができる中学生とを、同時に食育という枠で教える苦しさ。決してあの年代の子ども達は自分の家庭を見せようとしたがらず、背伸びし堪えています。しなければならない事は、食育以前問題だと思うし、同列である中で伝えなければならない栄養士さんや教師の苦しさを考えます。
 事項の報告だけを受けたからと言って、安心できるようなのは地域のお偉方ではないのです。実際に、自分の住んでいる近所での各家庭の状況も知り、抱え込んでいて、皆を思える人が、地域の長であるのです。
 その果てに国の責任者がいそうなのですけれど。どうも、そこが一番不確かで、小さい単位になるほど、現実の中で悩みながら、食とは何かを考えているように思えます。今治市いいですね。基軸がぶれない行政は人間の暮らしを見ているのですね。

2 件のコメント:

余情 半 さんのコメント...

「食育手遅れの親」という認識がありましたが、この一部の「大人」の人たちが私どもの顧客ということになりましょう。不安だ、心配だ、気味悪い、気持ち悪い、検査して。ひとつひとつ丁寧にお受けし、そのひとつひとつももらさぬようにお応えします。たとえ文面でも対話が成り立たせたいと考えます。言外に「海の色」「田畑作物の成長の移ろい」「はたらくひとびと指の色」を想像してほしい、という思いを込めてお答えすることを旨としています。
(あれっ、ちょっとカッコいいかなぁ、)

増田・大仏・レア さんのコメント...

あああ、メラミン入りの香港土産を一家中で食べていた私。食育をどこにすればいいのかしらと、深く嘆きますが、食の安全をワールドワイドにする消費者になってやるぞとの決意は新たにです。