2013年9月9日月曜日

東京で・・・


 ガリガリ君ソーダばっかり冷凍庫に入って、これは立花のお祭りの子供への振る舞いのもの。もっとたくさん、この家の冷凍庫にも。7日8日は、長女の住まいの・・もとの地元のお祭りで、年番の役が残っている連れ合いが一日先に行ってましたが、私は義母と山梨の家のすぐ前の停留所からバスに乗って、自家用車でいくのとはえらく遠回りな路線で甲府駅まで出て、甲府から亀戸まで、そしてこの家の前まではタクシーで移動して、ほぼドアtoドアの行き来で一泊。連れ合いより一足先に帰宅するという行程でした。
 子供の絶対数が少ないから、準備手伝いの人達も、なじみの通りを歩いて子供の山車にばったり遭った義母と私にも、ガリガリ君は振る舞われ、冷凍庫へ。
 神輿を見ても山車を見ても、担ぎ手のすくない事。7年後、担ぎ手は居るかしら・・あら違う話題。
地元、今回思ったよりも短時間単純移動ができたので、義母は帰り際には家に向かってまた来るね!と言って出ました。・・・・連れて動く嫁にすれば、え!と言いたいのですが、悪い事でもないかと考えたり。山梨のマハラバ事務所続きで一部屋になっている台所では、互いの動作を窺って息を詰めて、相手の出方で自分の行動を決めていく無言の時間が延々と続くより、気が晴れるでしょう。部屋がオープンでもなかなか気持ちはオープンにはならない間柄ですから。
 それにしても義母の子育ての頃、私の子育ての頃、現在。高度経済成長期、バブル崩壊前後、東日本大震災後。この町内のお祭りの様子を考えてもいろいろとあるわけです。自分の移動の範囲についても合わせて考えるのです。
 東京でパラリンピックが開かれ、青い芝の会は招待されてスタジアムで観戦。私の記憶にそのスタジアムで、横田弘、よっちゃんを小突いて、スタジアムの席から落としそうになったように覚えているのです。茨城から行ったのかどうか辿って確認したいところです。あの頃の、社会に障害者が出ていく、そういう勢いと、戦後復興を成し遂げたと世界にアピールした東京、オリンピック。パラリンピック。それの一端として障害者団体の招待。
 その時この工場の町東吾嬬は、多くの地方から出てきていた労働力を受け入れ、その人たちも町の一員として祭りを盛り上げ、それぞれの町内で睦に入り。。。経済振興というものの中に巻き込まれながら社会は、情報に乗って変容させられてきていたのです。
 結果、町工場は少なくなり、地域の経済は衰退気味になり、町の中は空洞化が押し寄せ3Kは、地方から出てきた人の手からアジア近隣の人の手にとなり、障害を持つもの、福祉の対称のものは、施設にまた管理されるような仕組みが増えて、主体的行動はネット上で電磁上ではすでに地球的な監視の網があるのでしょう。
 
 東日本大震災後、しなければならないのは景気というまやかしの高揚ではないはずだということを、町の中にも地方にも子供が少なくなっているのは、ひとが生きている実感を失くしてしまっているこの市場原理を変えるにはどうするのかへの対処をしなければならないのに。
 回りくどくなってしまうけれど、自己の存在感を渇望して、汗臭いような、人と人の見合いで力関係がうごめくような感覚があって、お祭りもそうだったはずなのが、いつの間にか、薄められて、手が届かないようなものになって、誰かがやってくれているから、素晴らしい事なんだ、それが、みんなで一致することになるんだ、大きなお祭り騒ぎの事。と。それも地球の反対側でよく解らない委員なる人たちの投票で決められたことが、本当に自分たちのくらしを良い方向にできるなんて考えられるのでしょうか。
 存在感、それは、スポーツでしか達成できないものでもないでしよう。あの頃、自分の家が、大勢の脳性麻痺者やら報道関係者、よくわからない奉仕の人たちが寄り来った中で、はっきりしない自我が、横田弘の背中を押しさせた、そんな忘れたい記憶。
 存在感とか、達成感とか、生きる目的は、一人ひとりの中にこそあるのに、どうして、大きくお金が動くことで証明されると思ってしまうのでしょう。
 みんなで一致して、、。最初からそんなものに乗り合わせたくない。それは一人の意思はどこだかわからない事を賛美することなのではないかしら。それなのに、個々人は見世物のように競わせる、闘う事を尚武する。
 誰とも競わない、誰のことも落とさない、そういう人間になりたいなという贖罪の意識は、あのスタジアムの記憶の頃から付き纏っています。なかなかなれないものです。
 ふと、そんな事を以前の町内お祭りの最中に考えたりする今日でしたが、立花の町内をうろうろとすれば、そこは私も子育て時期を過ごした場所。総武線で新宿に戻って山梨へ向かえば両国、秋葉原、御茶ノ水、飯田橋、四ツ谷、新宿。そして連れ合いの職場への日本橋、東京、銀座、有楽町、ずいぶん夜も待ち合わせしたあたり、そこも一日で過ぎて庭畑の家に。そうなのです。一つの時期は私の中では卒業しているのです。隣で車窓から町を見ている東京生まれの義母は一体何を考えているのだろうかと、思うのです。そして7年後。

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