2013年9月17日火曜日
台風一過
実りの秋の季節にやってきた台風18号。北上したらさっさと出て行ったようです。その被害はどれほどだったのでしょう。昨日、午前中には雨戸を閉め切った中で、あの暑い日照りの夏を過ごした山梨の最初の秋は台風直撃なのかと、自然のもたらすものの大きさを考えます。死亡者、行方不明者、全壊、半壊、道路寸断、増水、冠水など見ると、目の前の川が襲ってこないのが不思議な事でした。夕方には一転して、素晴らしい夕焼けも見せてくれました。義母も連れ合いも庭に出て西の空を見て、もう二度と見ることのない、この一瞬の夕雲。台風はその雲も連れ去ってしまって、夜明け前の星空にさらなる大きな物語を読み解きながら、畑の様子を見に行きます。三角ホーを使いながら思うのはやはり今まで見てきた、そして今食べている食材の各地産地の様子。それもよぎって。なお庭畑に戻るのです。
小さなくらし、その中のさらに小さな小石を拾って、アップにすると解らなくなりますが、砂利の細かいもの、篩の目からも落ちてしまっていたものが、雨で剥きだしにになってきているのです。これを、もう少し細かい目の篩にかければ良いだけのことを、先日の大雨以来気が向くと庭に出て、径3~5ミリ程度の石を指先で摘まみ、手の平に集めては、車を置いてある方の地面に移しているのです。これがまた楽しい。細かい指先の作業は嫌いじゃないし、ほらこんなにやったのよと見せる、誰もやらない事が私にはできる。そう言いたいのかと思いながら、ここは花果山だと、一個の小石の下を考えるのです。その小石が私の上にあるのです。
得意げな自分を表現しながら、それもまたあざとく感じる自分。それでもなお伝えたいと。そして、カラス大先生に学びながら、自分の中に兄を考え、他者を感じる時に、自他一如ということばはやっと、うっすらと見えるのです。一人じゃ力にならないと?では群れたら力なのかとも・・。
爽やかな秋晴れになって、東京からの消息にも、また身の回りの者たちの状況にも、すでに子供たちは独立し、いづれはこの庭に私たちのどちらかが一人で立つ時もそうは遠くなく。いろいろ考えると、やたら肩ひじ張って、個人の身分保障の形を考えてきたけれど、小石と対話していると、対峙すべきは国ではないかもしれない。カラス大先生もそう言っているのかもしれない。
今までの活動は、暮らしの中に集結していて、今の在り方ですべてある。
自覚するというそのことばは、父のテープから聞こえてきたのでしょうか。
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