秋蒔き在来種
お連れ合いさんは何をしているの。。庭に居ます。文庫番はパソコンの前。
お百姓さんではないお互いに不器用な者。あと一ヶ月もすれば、結婚してから37年。知り合ってからは45年経ったのですね。今頃こうやって、種蒔く人になるなんて、草取る人になるなんて。昨日、甲府に行って買ってきた種袋を見ながら思います。(自然食品有機村で)
文庫番はまた朝市参加を画策しながら、あちこち予定を入れていますが、まずは連れ合い優先の予定です。連れ合いは秋になって行政主催の料理教室に申し込んでいるではありませんか。そして庭木の手入れ教室も県立高校の社会人授業であると申し込んでいます。
ここに来て、前と同じ仕事が続けられる?と何回も尋ねられて、そうね、もともと形の無い文庫番だから何とかなるの。と言っていたのです。連れ添っての年月は、自分たちのしたかったこととしてこういう形で実っているのです。在来種の秋蒔きなんて見つけられたのですし。
相手がしたいということがあって、何も異存なくこの土地に移ってきたのですから、焦らずに少しずつ。大丈夫なんとかなります。
文庫のお仕事、このところ、やっと父の最後の講義録のテープも聴いています。
やっとなのです。東京に居る間は何かとバタバタしていたので時間が取れなかったのですが、今はある程度は時間に融通が利きます。そして、ホームページマハラバ文庫の新解放理論研究会で、父の文章として残っていたものをアップしてきたことで、講義録というテープを聴き取る力ができてきたのです。「明日へ帰る」の取材経験も良かった。だから難しい教理の言葉を確かめられるのと全体の流れを掴むということができました。あとは打ち込みです。 ついでに義母の楽しみも何か考えられるゆとりができると良いのです。
何と言っても事務所は台所直結。ここは文庫番のテリトリーだねと友人から言われたという事は、そこに多くを包摂できる力を持たないとならないのでしょう。今は義母と連れ合いと、それぞれの主体性を活かして暮らしたいものです。
でも、庭畑なのです。
庭は畑じゃないという事に、昨年夏気が付きました。二年かけて夏・秋と草取りを庭でして、義父にしてみれば、何故草を取るのかという不思議さがあったのです。畑は、草が生えていていいんだと。義父は言ってました。うっちゃっておけば枯れて肥料になるんだから。そうなのですか。草が作物の大敵だと思っていたのですが、草は放っておけば肥料になるというのが義父世代の考えだったと解った時に、何故庭は、草取りをするのかと考えるのです。生産性というのとは別の世界、造りものなのですね。寺男の仕事と言えば、庭を清めることなのです。幼い記憶は竹箒と熊手の扱いを祖父から言われていたことです。草も葉も無いのが寺の庭であるのです。庭はどこの家でもそうでしょうね。石と砂。有機質を還すところではないのです。枯山水と言わずとも、生産のためではない場を暮らしの身近に置いてあったのです。さらに今年の夏考えたのは、山(寺)と庭の違いです。一昨年の夏、閑居山でみた圧倒的な自然の力、人間が手を入れてどうこうではないのです。それを覆い尽くす時間と生命が山には在って、その中に一人が対峙するという事。寺には寺号と山号があります。国土地理院の地図上の山ではない寺の山が表すものとは、もう少し学ばなければならないようです。そこに在るもの。そういう観念だとは思うのです。家庭。家と庭。そして出家。堂々めぐりですね。
でも庭畑なのです。
裏庭の一部が家庭菜園。そういうのがよくあるわけです。どちらにしても、私達夫婦は農業者ではないのです。畑ともつかない庭に連れ合いはいます。この人もストイックなタイプ。今までの四か月、ひたすら草取り、石の配置。そして家の掃除で過ぎてきています。里山の大豆畑は、ヴァンタスファームが、味噌の里親プロジェクトに共鳴して貸してくださっているものです。連れ合いは、あくまでもその助太刀。そこにもいく時は寡黙にやるだけのことをして、あとは私の判断と体力になるのです。この袋の種は庭畑では余るようです。文庫番は、まもなくテープ起こしを始めるつもりなのですが。
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