2012年11月22日木曜日

果たして

 一期一会とありました。歩数もまだまだ。矢筈を構えて軸をかけます。
今年は短い秋だけど、風炉と炉の間に、少しお盆手前や、香を聞くのも入れましょう。と先生が考えてくれて、軸物の扱いや、略式のお稽古なのですけれど、一昨年の記憶でまたすっかり頭の中が白くなって、手も足もちぐはぐです。先輩たちと、すっかり忘れてと笑いながら、楽しんでいる11月です。
 その一期一会という書も、大徳寺のゆかりの何某のと先生はお話してくれるのですけれど、今朝あたりからうるさく目に付くいい夫婦の日。一並びの文字が似ていると可笑しく集中しないので、また軸の扱いが解らなくなります。紐を左にやったり持ち替えたり。忍術の虎の巻がこんなだったら、忍者は役にも立ちません。だいたい、もてはやされる記日なんて、本質からは意味ないです。
 所詮、いい夫婦なんて、何年一緒だって外から見た限りでは無いし、本人自身も意識できることのないものですね。愚痴ばっかりで過ごすようなのがいい夫婦とも見えることもあるのではないでしょうか。物事の実体なんて言葉ではないですね。
 私の父と母は対等な関係であろうとしていたことは、その互いの名前に敬称で呼び合う事にも表れていました。そして主人、家内とは言ってなかったし、もしかしたら、力関係も姉さん女房であった母の方が、大きかったようにも思い出されます。それはまた、あの時代の先駆け夫婦だったのでしょう。そして、個人とは主体とは何だろうと悩む子供二人を置いて行ったのです。そもそもが父は出家の身であった訳ですから、家内を置くのは自己矛盾となったのでしょう。
 家内と呼ぶ言い方を、おのこ共がする時。それはかなりの覚悟を要するのだと、この頃解りました。今、家に居る連れ合いは私をどう他に紹介するのか、興味深いのです。
 私の論理でいえば、政りごとは、国政と家政とは対峙するほどのものである。家とはアジールであるか、国と対抗できるほどの力であるものです。くらしの主体者とはどこに居るのか。考え続けていかなければなりません。家内を山の神と崇めるのを単に冗談の口だとしてはいけませんよ。天照とまた違う、根ざした姫神が居るわけです。ますらおであるおのこ共は、だからこそ家の内を、外で守っていなければならなかったのでしょう。その時に、在り方を対等に認め合う事ができる妹背となったのでしょう。
 果たして、こんな事を考えている私の連れ合いは、また何を考えているのか、聞かないことにしておきましょう。
 だからお稽古に集中できない。一期一会。
 
 

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