朝起きて、窓を開けその日の作業を考えます。庭畑にはじゃが芋と豆が伸びるでしょう。蕗の董、野萱草、植えて三年経つ果樹も少しは実が付くでしょうか。そう、里山畑も起こしていこうと余力と相談しながら考えましょう。そういう穏やかな日常。・・・それを普通の暮らしと言うのであれば
私には、生まれた時から兄が居て、生まれたところは山寺で、父母の教えは常識には捉われないもので、周りの人々は愛と正義を否定して。。
ああ、だからと言って、矛盾はなかったのに、なぜ同じことの解釈に違いが出てくるのだろうと、解決していくものではない状況を思います。断ち切ることが簡単であれば良いのに、自分の身の内の事。まさに身内であることなのです。外道というのも埒外というのも、それは一つの枠をあらかじめ決めてしまうから。それをこそ徹底して疑わなければならないのだと。それなのに身内からの矛盾でもろく崩れていくとして、覚悟もない文庫番には、袴田事件のお姉さんがまぶしく見えるのです。
まもなく桜も満開になるのでしょう。先日の雪で山の桜も折れたと言っていました。それなりに寂しい。もう一度、許すということを厳しい許しであったことを教えてもらいたい。
この世の中でたった一人の母を否定する自己弁護をして、身を守ろうとすることが少しずつ他の人とずれていき、話が通じなく粗暴に表れる。それを逆手にとってしまう。生き辛い下降のスパイラル。
確かに引きずられてはダメだから、より強く踏ん張れる力を持っていないと、ただの、くらしの力。
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