2014年3月8日土曜日

春遠き山の中

脚立に登って、もいでくれた夏みかん。今年のは苦いが皮を風呂に入れると良い。と渡されました。連れ合いが電話を受けて、話を聞きにまた茨城の山に丸一日の往復でした。
 こちらは、お昼にかけて麓の部落にある新しい蕎麦屋で話をしようかと思って山に上がったのですが、飯が炊きあがっている食べていけ。という事でした。
 町の中では薪で炊いた米の飯など食べられないだろう。と納豆と天日で干して自然塩だけで漬けた梅干し、七輪で炙った海苔。残念だが、味噌汁はインスタントだ。と。
 庭だったところに、茣蓙を敷き、ブロックで囲われて見えなくなって、ブルーシートが垂れさがっている昔の流しあたりから、古びた茶わんを汲み水で洗って、用意された長膳でした。
 三人で陽だまりでの昼食。すぐ陰ってしまう山の中。
 確かに、この欧米中心、ある意味キリスト教的な考え方で今の生活の基になる法律ができている中で仏法が伝えにくいというのは理に適っているでしょう。それを説くには場と相手が必要であり、親のやっていたことはその時代では通用したかもしれないが、自分が同じにしても同じではないというようなことも、その通りです。多分、気がする、・・のような。断定はしません。相手に促すことば。民主主義というもの自体が、本来の日本の考え方と違うというのも、かなり解るし、この兄は、私の鏡。鏡合わせで、前後ろを見ているような自分とどう違うのか。また、思います。自他との間。生まれた時から、背負っている命題。
 つまるところ、禁じ手である駅頭での托鉢をしたい。と言うのですが、托鉢はやったらいいじゃないですか。何も駅ではなくて、辻説法でも。と連れ合いは言います。
 親を大切にするという在り方、物を大切にするという姿をこの山の中で、来る人に見せればいいと文庫番は言います。
 今、多くの人が制度の行き詰まりの中で、「あいだ」が拡がっている事を感じているのです。高邁な物言いで、説くことでは、身勝手なだけになることは、背負わなければなりません。自尊は劣等感の裏返し。世の中が間違っている、だとしても自己解体をした上で、同意を求めなければ伝わらないでしょう。ここで、自分というものを見えなくしてしまうのはダメなのです。
 
 

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