2014年3月11日火曜日

手放していくということ


 まるで、両手をあげてバンザイをしているように見える野萱草の芽が出ています。母が神立に移してあった閑居山の萱草。
 母の庭から山梨の庭に持ってきて、雪が融けたら小さな芽が出ていました。わすれ草です。
忘れるために、この草を見る。それほど人の執着。こだわりというのは、強い情念なのかと万葉人の思いを探ったのでした。こだわりを捨てる。執着を手放すということが、気持ちを軽くするということを見かけるのですが。。
 手放していかなければならないのでしょう。兄には、その身の立つ在り方もできないし、一山を維持し他のものに渡らないという事もできない。それは、極幼いころから薄々は解っていて、どこかでは覚悟していたかもしれないのですけれど、それだけに切ないものです。母の思いも通じないまま、そして、自分のやりたい事を通したいのだから、こちらはこれ以上は関係はないのだよという連れ合いの考え方。あの昼餐は、永訣の宴になるのでしょうか。
もうあの山に、私が呱々の声をあげたあの山の中に、行く事はないのでしょうか。
 この三年間、どれほど別れを重ねてきたのかと思います。拠り所であったものは、残らない。こだわり、執着というものが、人を果てさせるので依り代を万葉人は考え出したのかしら。
 食べて忘れるというのが、一番文庫番には似つかわしい。酢味噌か天ぷらなども。ああ、そういえば、文庫番を続ける意味すらこだわりなのだから、思い直したらどうなのかと。存在事由が見えなくなりそうで、ぐらぐらとします。
 そう、戻れなくなる故郷を思い、別れてしまった肉親に涙し、自分の存在が揺らついて。全国で幾多の人々が、その悲しみをまた確認した日であったのです。それなのに、一日、故郷のメロディーが聞こえると、こぼれる涙に、さらにやりきれなくなって。
 ちっぽけな私の感傷などを重ねてはならない。3月11日。昨日のこれ以上のことはできないという投函は届いたのでしょうか。

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