2014年1月15日水曜日

日がな一日胡麻仕事

 うーんと伸びをしても腰や首がばんばんで、まだまだゴミを手選別。老婆の盲しいた目にも見える・・・とか老眼鏡で、疲れた指先で摘まんで選って、それなのに、目の前の二つの箱の反対に入れてがっかり、秋からずっと気がかりだった出窓にあった胡麻を選り分けてますが、風選別もして間に少し手伝ってもらったにしても、何て一杯できちゃったのでしょう。。。でも半分近くが不稔。
それもまた、選って、捨てて。箱を間違えないで。年末にやり残したことが今できる時間。そういうゆっくりが必要です。それも春が近づくのに追われてですけれど。
 大丈夫少しずつやっていけば、とは教えられているけれど、その少しのもとが小さいとキリがないようにも先が思えて、うんざりしたりです。どこかで胡麻かしたくなります。
 でもこの一粒が、あの夏の日照りも魂消るようなゴマ虫にも負けずに実っていたのだから。もちろん肥料もなかった瓦礫を起こした庭畑だから、その味が優良であるわけでもないけれど、せっかく自分の口にする分となるのだから、丁寧にそれこそまでぃにしてやりたい。
 こんな作業をしていると、朗読のお稽古で随分やった「外郎売」も、あれこそほんの真胡麻殻など口から出るのですが、そう胡麻に胡麻殻が混ざっても異物混入になるのでしょう。食品の基準。でもこの成り立ちで言えば、同体なのに。同体同種が相離反するのかしら。それにしてもこれは農薬すらかけてない、手のかかってない胡麻だから異物混入の経路というのが問題になるのは、どこの時点であるのか、全然生真面目じゃない脱消費者は思います。脱原発も道遠いですが脱消費者って?プロシューマーにもなれず、お金で表現するんじゃないから。とまたことば探しでぶつぶつ。
 寒中見舞いの用意と一緒にまた母のメモ書きが出てきて、それは1円単位のやりくりの生活の中でのカンパの送金先。少しずつ、、そう私に教えていって。少しのもとが小さいとキリがないなどと言ってはいけなかった。生活保護を受けているものがカンパをしていくという事。お金じゃないんだという。その意気地。今の私はその少しもできていない。

 

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