2013年6月18日火曜日

種を触るということ

 
 この芽ばえに、どきどきします。
 
我が家は農家じゃない。あくまでも、趣味。だから、経済生産の計画なんて考えていないし、引っ越しすぐの新参者は、地域の人たちの活性剤なのか、食べられる以上になりものがやってきて、自家菜園も、よちよちのまま。
 昨年、ともかく荒地は大豆からと蒔いた大豆を育てた場所、冬の間は大麦などを育て、それも、通いの頃の種まきで、おぼつかないやり方で、生ごみ堆肥も通いで入れたところです。
 刈り後に、また大豆としても、麦と大豆は相性がいいからと言われていたので、それでも良かったのです。
それなのに、連作はしない方が良いのかと、全然別なものを、広げた庭畑に趣味の植物を。
 だって、出るかどうか予測もできなかった。さねくりなんて、とんでもない。ただ表面の繊維を毟って、水に浸しておいた種を、埋めたところです。
 綿が、芽生えてしまいました。隣は、生ごみからでしょうか、沖縄かぼちゃのテレポーテーション?。ごそっと出ましたので間引きました。そして手前に一本大麦のこぼれからだったのか、イネ科のものがそっと出ています。一昨日の雨は慈雨だったのですね。
 でも、種綿、まさかと思い、水に漬けて。白い根なのか芽なのかみて危ぶみながら間隔も解らずに、麦の刈り株を掘り返し畝にいけて踏みつけて水を掛け、土を被せて畝たてしたにしかすぎないところなのに、相変わらずの造成跡地なのに、いのちを移して良いのだろうかと。水に浸した全部。そして、まだ繊維をとっていない茶綿のもこもこは、そこにいのちがあるとしたら、どうすればいいのだろうと、悩むのです。いのちを選別していないかと。趣味って、綿の始末もしらないし、ただ、やってみたらどうなるかと。
 種を扱うとは、いのちを扱うのだから、これで良かったのだろうか。息苦しくはないだろうか。全部を育てられない事は、詫びようもなく。私はきちんと育てられもしないだろうに。大麦ですら刈ったあとは干したまま。人間世界の取り込みごとに、右往左往して。移転通知も操作できないパソコンに、使いこなせないソフトに参って。そしてしがらみの務めもある。おまけに梅はどっさり実って。
そう、大麦も菜種も、そして大豆の発芽も、待っていてはくれない。そこには別ないのちの時間が動いていて、それを聞き取るのが、いつかは趣味から文庫番のことばになるだろうと。
 
 でも、種への畏敬の思いがあるのと同時に、その選別をしなければならない、人間の傲慢。もしくは育てる責任。そういうものが、宗教に連なっているのがオーソドックスなのだろうと感じるのです。その事と背中合わせに、そういう詫びなければならない思いを預けて、種子管理は、専門業者にすれば、とても楽なのでしょう。合理的であるとは、無駄なく栽培するには、買ってくるという、宗教に似た代用を人間は見出したのかもしれません。
私の庭畑。アンクル?アント・レアの自由への道。

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