2012年12月3日月曜日

青い芽・・芝にはあらず

ゼルニャトコ(麦)の芽が出ていました。キエフの子供たちの歌と舞踏、バンドューラをつま弾く
ナターシャ・グジー。チェルノブイリの子供たちの支援はあの後も続いていたはずです。
 何もして来なかったわけではないし、小さなカンパを大きな力にと参加した人もいたはず。ただ共有感、継承していく中身がありながら、芽を伸ばすには、外の風が強いこともあるようです。
 山梨の庭・・・畑?に蒔いた大麦が芽を出していました。春には青い麦の穂が並ぶでしょう。
大豆のあとには麦が適すると聞いて、ぜひにと願ったのですけれど、そのうちに、義父の語る麦飴づくりの話に、乗っています。浜岡原発に土地の大部分を売ってしまった、分家のそのまた次代の嫁が、もう食事もたいして食べない義父に無理やり、麦畑を見せるのです。春には飴をつくりましょう。
 私たちは、まだまだ新しい可能性を創っていけるではないですか。
チェルノブイリの子供たちが、抱えていた不安は、私たちの世代から、次世代へ渡してしまいました。この地球上で、放射能で汚染されていない食べ物は皆無となったのでしょう。濃度の問題で、あちこちを較べるのは、分裂にもなりかねません。世代も、地域もこころもずたずたにしていってはいけない。伊達東の仮設住宅。支援するという事。お年寄りをそこに、固定するのではない事。技の継承まではならなくとも、自尊の思いは継承していかなければならないのです。
 その時に、では自宅の年寄りの自尊の気持ちを、踏みにじりながら、自分を通してはいないだろうかとも考えます。一緒に暮らすという難しさは、どうしてもあります。農地解放後の私達のクニは所得倍増やら列島改造やら、気が付けば半数の若者が職もなく、年寄りも敬われない社会。その風潮を抗いながらも一方で是としてきた世代が庭仕事をしはじめたのです。くらしからの発言の難しさは、自分の身の回りからの発言に、普遍性を見出し、濾過し、伝えられるようにするという事。社会を進んでいるとして家の中も変えようと抗った女性たち。手段を与えたおのこ共。
 だけど、手わざの大事な部分を、身体で習得する時間を少し、持てなかった。できる事は味噌造りや飴づくり(になるか)。くらしからの発言は自分の小さな気付き。こだわり。カレールーの油!顆粒でいいわ。離型剤の無いプリン。それは貴重な個性。主体性。芽は伸びていく。
青い芝は、踏まれても踏まれても伸びていくと名づけられてきたはず。そこにこのゼルニャトコ青い麦もまた、幾粒かが地落ちて踏まれても糧となる。そういう庭畑が文庫に続いているようにしたい。
くらしからの発言。濾過し、煮詰めて、もっと多くの人の口にしやすいことばに。

すみだこまちの田んぼも、田んぼ替えでした。車で移動できる田んぼ、もう一枚も水が上がったら移します。
 そういう、悠長な路上なのに、道路渋滞に巻き込まれました。朝8時半に墨田を出ましたから、高速に乗ってしばらくしてから、大月から通行止めという事故情報。そのうちに災害となって、詳細が解ると、もし、時間がズレて笹子トンネルを通っていたらと愕然となりました。痛ましい災難。人命も失われています。お悔みする次第です。 
 麦の芽生えを確認して、稲の来年も植える容器を置いて、スタッドレスタイヤを積んで、東京に義父母と上九一色を通って山中湖に出て御殿場から東名高速で戻りました。山梨県内の山道には初雪が、ヘッドライトに照らされながら降りてきていました。
 高度経済成長で、繋がっていたもの。点検は深層までしなければなりません。何故成長を目指したのかも大計として考えてみなければならない。答えはもの言わぬ生き物たちから聞くしかないでしょう。青々と踏まれても踏まれても伸びていく力。そこにただ生きる姿があります。
 

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