2011年3月21日月曜日

自己決定できる消費者でいたい

 いつも、そう考えているつもりですが、時々、大したことのない自己などを振り回してもみっともないと考えたりします。
 でも、消費者(人)とは不思議な心理を持っているのです。国民の一人として、原発事故の対応をしている電力会社や自衛隊の英雄的行動を称賛する一方で、暫定規制値を超えた放射性物質の検出された野菜や牛乳はいらないというのです。
 というかそのことを受け各県が生産者に出荷自粛を要請しているのだという報道です。食の安全を国に求めてきているのですから、その発揮は当然として受け止めないとならないのでしょう。けれど生産県であったところが、今回の被災地でもあるということ。特に茨城県などは1999年にもあったJCO事故の際にも農産物が消費者に受け入れられない状況であったにもかかわらず、生業として踏みとどまった多くの生産者がいるのです。それなのに、私たちは、“買い支え”という美辞は伝えられないのです。我が身が第一になるからこそ、自身を顧みずに、災害救助や原発事故に立ち向かっている人々を称えるのです。
 特殊訓練を受けている人と同じような決意で、自分に出来ることが、僅かにでも農産物を消費することだと思っても、流通されていません。独自ルートを開通させるにはまだ物流が整備されていない中での我がままになってしまうのでしょう。買い支え以前に、今、避難しているひとたちへの、個々の状況に対応できる、水や食事を届けなければなりませんね。
 気持ちを表すしかできないのでしょう。食の安全ということの、深く広い概念が自分の中に無かったと思い至ります。このような、暮らしの中に張り巡らされている、さまざまなネットワーク全体を通貫できる、食の安全を助け合いとともに考えていたつもりですが、浅く、狭かったのだと今は思います。
 これからの、私たちの社会には、ほとんどの人が放射性物質を取り込んでいるという想定での、医療制度・介護制度、それにともなった経済の理念を持たなければならなくなったのです。過去も被爆国であった日本。今回、一国の一地域の原子力発電所が天災を受け、そこから発生する事態で他国への拡散放射能を発しているのも、過剰なエネルギーを享受していた、都市生活であったと考えると、これからはもう少し生活全般を変えないとならないかと思っています。
 そう考えると、今できる事は、ここに暮らす自分が、何を考える日常を送っているのかを発信することだとみっともない、自己との向き合いになります。

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