2017年7月21日金曜日

写真展 山梨の新聞で取り上げられました

地方版ですがhttp://www.sannichi.co.jp/article/2017/07/21/00209398若い記者さんの取材でしたが、このように掲載されました。
お問い合わせを文庫に頂けると、いろいろと、また資料的に確認できますので、写真にお心当たりの方々ご連絡お待ちしています。

2017年7月13日木曜日

資料の価値


 
 マハラバ文庫写真展 開催中ですが、現物資料の一部も会場内に出してあります。もう少し、保管の方法なども考えられると良いのですけれど、母の遺したものそのもの。また私の手元にあったものなどで、大仏尊教の思想を体系化していくには、まだ不十分ですが、一部でも伝わる所があればと思います。
 資料にだけ基づくことを、文庫番は考えてきましたが、そうではないことを求められていると、思うようになりました。
 そして資料が三つあれば三つの事実があるという言葉を、あらたに人から聞きました。
茨城の私が育ったころを中心にしてありますが、(だって父は53歳で亡くなったのですから)あくまでも、私にとっての事実であるのが、私にできることのすべてです。そして会期中から再び取り組んでいる父の講義のテープ起こし。今回は自分に無理がないようにやっていきたいと思います。

2017年7月6日木曜日

とうとう7月6日になって


 

 もうそんなに、月日は経ったのかと、それはそうだとも思いながら、古色蒼然とした昭和初期の写真から、在りし日はついこの前のような、大仏尊教の写真を並べます。
 本日からの山梨開催。亡くなった時には、考えることもよらなかった写真展です。
気持ちだけの入場料は、今回の写真の修復、引き伸ばしを写真専門店にお願いしたことへの費用の足しと思います。
 6月、とても気持ちが乗らなくって、茨城の心配も多く、ブログアップもしなかった。
父に語ろう小林恒吉さんも、そちらに行ったのだと。
 父の言っていたことを、書いたものをまとめ、テープ起こしをしていくのには、まだ自分の力不足を感じて、もうゴールを見なければいけないのに、今回は途中の給水に寄った持久走のような気なのです。
 しかし、写真を幾葉か見ているうちに、何を考えていたのかが伝わってきます。父の思想を、読み取り咀嚼できないと、厖大な知識量の総合された言葉は、軽い意味の牽強付会として扱われていることを、過去に観てきたのです。
 写真を見てその知識、ことばと合わせて行動の意味が、私の理解に落ちて来るのは、また、迷路のような資料の中を、手探りで切り貼りできたからなのです。
 だから、手に着かなかった父の生涯をまとめていくというライフワークの道へ戻らないと、すぐに時は過ぎてしまう。
 写真展を覗きに来たのか蜻蛉。そして玄関の出迎えは、自立した精神のサル。




2017年5月24日水曜日

ここでお会いするとは!


 埼玉大学の前で降りて信号渡って、生協が僕の住いの大家だから、と金子さんから連絡があって、山梨を出るのに二回の用事を一回でできればと、武蔵野線周りで行ってみたら、そこにはこんせん君が歓迎の前肢をあげてポーズしていました。
 埼玉勤労者生協の住宅だったのです。奇遇というべきか、巡り合わせとはこういう事なのかと、私も前肢、、でなく手をあげてその信号を渡りました。
 マハラバ村の事、和尚さんの事を話してほしい。10月に企画をするように仲間と話し合っていく。相模原の事件だって、決まるらしい共謀罪についてだって、僕らは頑張ってきたはずなんだ。。。そうだよね。私は、障害者運動の方向性とか決めてきた事について話しをするものではないと考えているから、閑居山の事や両親の事として話をするように考えるけれど。7月にその頃の写真を引き伸ばして、展示できるようにと考えているところだから、それをそのまま、搬入できるように考えてみる。そのような打ち合わせとヘルパーさんの作ってくれた昼食(美味しかった、でも玉ねぎサラダ残ってしまった)を食べながらよもやま話。そうそう皆自由意思で閑居山に来たんだと言う事を、言わなくっちゃね。大仏さんは、脳性麻痺者のお蔭で思想の実践ができるようになったし、やる事やりぬいて、いい時に死んだんだよね。
 やまゆり園の事件について、もっと深めた話をしたいという、今殺される立場だという自覚。それを、取り戻さないと、共闘はできない。そういうもどかしさが金子さんの中にあることが感じられました。決して歴史ではなく、今を生きる自分たちの問題としてマハラバは有ると言う事を語れるように用意していきましょう。

夕方に、思いがけずいただいた青森のリンゴ。帰宅は別な会議を終え、ほぼシンデレラ。

2017年5月22日月曜日

外に出たい、今昔

花田春兆さんのカード
               石岡駅からのバスで
 
 人の出会いというものを考えます。花田春兆さん「しののめ」を出して、その知性との出会いが、宗教者としての魂のままに光明養護学校に出入りし、その時代の落ち着きどころを探していた文庫番の父、大仏尊教に、その頃の青い芝の会を見出した出会い。
 もし、それが無かったならば、、遺影となった春兆さんに、もっと問いたかった。様々な事。並べられた盛花に、見知った名前はあるけれど、告別式の会場にはよっこちゃんも来ていてくれた。会えて良かった。 
 土曜日は、ちょうど家から茨城に行く用事を予定していたので、間に合うように家を出ることにして、桐ケ谷斎場に寄ってからのつくばの会議。そして、よっこちゃんには、もっと元気でいて欲しい。もうあと誰が残っているだろう。
 日曜日の朝、石岡駅から関東鉄道バスに乗ります。この道筋で幾人の脳性麻痺者が閑居山に向かったことだったのでしょう。河村ハイヤーもまだあるのでしょうか。障害者(脳性麻痺者)が外に自由に出て、自分たちの意思で行動をするという事。人として当たり前の事。
 石岡駅の駅舎は、50年前とは大違い。エレベーターも、エスカレーターもあり、駅前ロータリーは広々として、あの頃の常磐線は、煤けていたし、駅の階段を手摺りに斜めに体をもたせるように一段ずつ、上り下りして、皆、ここを通ったのです。駅の匂いというのも独特のものが有ったように思いだすのに、バス停で待っていると、ステップバスが当然のように来て、、当然なのに、その今昔に驚くのです。閑居山に思い思いに集まってきたみんな。晃ちゃん、よっちゃん、小山さん、ウルトラさん、二日市さんも仁木さんも、山の中に居た私は、皆が来たのは知っていたけれど、思えば、どうやって。。。
 和尚さんに連れて来て貰った。そう言っていた人も多かったのです。父の単車に乗って、背中にしがみつくように、それは個人個人は自由意思で来るのだけれど、見える形は、「和尚さんに連れてきてもらった」という事になってしまう。
どうすれば、そんな気持ちの中も、写真という画像から、見えるようにできるだろうか。
 今回の茨城行も、またヘビーな内容を含んでました。どう表現したらいいか、できうる可能性の中で。

  

2017年4月16日日曜日

白き花に


 
 復活祭、茹で玉子一個にスズランの花。君影草と先週の趣味の園芸で放送されて、家の庭に咲くのを、誰の影を慕うのかと、白いふっくらした頬を思います。
 だいぶアイビーが伸びてきているので、今咲いている反対側の西日の当たる方に少し分けてみようと思っています。そちらはドクダミの蔓延るところ。根っ子の張りっこ合戦となるけれど、紫花大根に取りあわせて、数年計画で植え替えしてみようとイメージしていますが、半日を根っ子(地下茎)と格闘すると、それだけで大仕事をしたような気分にもなります。
 思うに任せない植物との日常が続くのです。
 思うに任せない、いろいろな先行きも考えるのですが、植物の地下茎の陣取り合戦はどのように調和していくのでしょう。イメージをしている文庫番の想像を超えた調整があるのか、恣意的に手を入れていくのか、日々庭で悩むところです。
 根っ子の合戦は、今が戦前のようだとか、まだ戦後は終わっていないとか、(これって良く同じ人が言ったりしませんか?)という人間世界のきな臭さとは違って、植物任せ。
 注意深く観察してかなければと考えます。
 

2017年4月7日金曜日

時は巡る



 女三界に家無し。。母の墓は建っているけれど、どうも、しっくりこないこの地方の石材店はカトリックの墓を知らず、花入れまで備えてしまったので、有難がって、私は時折花を供えに、隣の我が家の墓と同様に扱っているけれど、母の本心は、どこに帰りたいのでしょう。ともあれ、茨城県の森林管理署への、閑居山の極一画の借地は、引き継いでしまったから、兄が居ても居なくても、必要としてもしなくても納付書は、母の命日に合わせたように来ることになっているのです。境内に隣接した土地だったのを知らず、境内の続きとして使って物置が立っているから、それを撤去しない事にはどうしようもないけれど、遠い私にはとりあえずはそのままにしておくしかないものになっています。
 諸葛菜、紫花大根、閑居山で母が愛した花は、我が家の庭に咲いています。お墓に供えるのではなく愛でることで、今日を過ごします。

無縁の地平に