2014年9月3日水曜日

桑畑の上に


マハラバ村全景


 8月の学習会でも資料掲載したこのプレハブ三棟と中腹の庫裏の見える閑居山の写真。三階と言われていた建物は竹藪に隠れてしまっています。
省みれば、その下に山の麓ぎりぎりまであったのは桑畑だったのです。

 8月の末から二泊三日で岩手、福島に行ってきましたが、二泊目は仮設住宅の栄子さんのところに泊まり、お蚕の話を沢山お聞きしました。今回の文庫番の旅の目的が、仮設住宅と同じ伊達市内の入り金真綿石川彦太郎商店さんの訪問にあると知って、たくさんの思い出を教えていただきました。
 一晩ゆっくりくっちゃべりたいねぇ。と味噌の天地返しの前後に言われていて、家を出ることができたついでに泊めさせてもらって話をして、そうするとどうやら真綿屋さんに寄る時間もできそうだという計画だったのですけど、思いがけずに栄子さんのいろいろを引き出しました。それこそ繭から糸を引くように、丁寧に訳の解らない私に教えてくれる糸口を見つけながら、幼時の暮らしを語ってくれたのです。それが、まだ養蚕をしていた頃の茨城の風景と繋がり、なおさら話し込んでしまいました。
 蚕の桑の葉を噛む音。蚕を育てるところの温度を保つために、冬の間に蚕さん用の炭を焼いてあって、梅雨時には囲炉裏を焚いて二階を温めていたところに、従姉妹さんと寝ていた話。藁ダに育てていた蚕。その糞は畑の肥料として戻した作業。そして親戚で赤ちゃん=オドッコが生まれて見せてもらいに行ったら、赤ちゃんの頭には真綿帽子が被せてあって、おばあさんが抱いて出てきて見せてくれたお話。(閑居山の下のあたりでは赤ちゃんは茨城弁で赤ちゃんをオドメと呼びました)
小さい蚕の食べられる桑の葉と、繭を作る頃の蚕の食べる桑の葉の違い。その音の様子を聞きながら、温めたり、餌を加減していた女の人たち。幼子を慈しむ生活は、自然からの導きにあったのでしょう。女の人たちを季節で雇うという事はその家の主婦は蚕仕事以上に忙しく、目配りができないとならなかった事。そして自分たちでも糸繰りも、染めに出して反物にすることもできたくらしが、目に浮かぶ様に語られました。合間にお味噌の話や今回の二地域での中間貯蔵施設受け入れに対しての気持ちも話してもらったのですけれど、食べ物や衣料を自分で作れるくらしがどれほど大切なのか。そこを文庫番はどのように書き留めていけるでしょう。それこそ山仕事讃歌の続きになるでしょう。次の訪問先が、予約無しだと聞いて、珍しい人もいるもんだと、送り出されました。

 この写真、山の麓ぎりぎりまで桑畑であったというのは、東向き斜面のこの閑居の地は、食用の畑作もできない土地であったことも写しています。この山腹で、私たちの口に入るように、畑を耕した若き母の苦難を思うと夏草くらいにすぐへこたれる娘は、不肖の娘です。今居る山梨県の中央市のちょうど家のあるところもシルクの里となっていますが、もう養蚕農家は一軒しかないという事です。懐かしい時代を書き表すのではなく、これからの時代をつくる、食も衣料も自分たちの手技にある社会をどう書いていく事ができるでしょう。


伊達市ホームページから
http://www.city.date.fukushima.jp/soshiki/87/144.html

入り金真綿石川彦太郎商店


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