昭和二十七年の「キリストに倣いて」に母の洗礼名と、洗礼をいただいたヤヌワリオ神父様のお名前が書かれて、その日は九月の十七日。
母は、すべての人への癒しの手と、信仰を守った二人の聖女の名前のままに、父と会い茨城の寺に嫁いだわけです。
その後の母の活動を思うと、相応しいものだと思うのです。もちろん、人間としての、普通の喜怒哀楽の中で生きていたのを一番身近で知っているのですけれど、だからこそ、どうして清らかな在り方を貫く意思を、魂を持ったのかを考えます。今の文庫番の名刺は、母の見たはずの石狩平野へ沈む夕陽を昨年の春に撮った画像を貼り付けてあります。大仏照子覚書きは、きなり歳時記の連載が終わった時からぼちぼちと書きとめていたのですけれど、形にならないままです。少し気合を入れたいものだと思う日です。
先日、東京まで出た帰りに受けたメールは訃報でした。青洞の家の高橋さんが亡くなったというものです。間が悪く、東京に引き返すわけにもいかず、客迎えもあり、葬儀にも行けず、惑う昨日でした。それは30年前に、母から、青洞の家の就学児闘争に皆行っているのよ。と言われても、あの時は近くに住んでいながら、通りの角まで行くつもりで出て行きながら、自分で無理だと引き返して、夕飯を作っていた自分が重なって、暮らしを楯にして、参加していないと嫁いだ者である事の中でもがいていた姿です。また今、なぜ動かないのか。言い訳ばかり浮かびます。さあ、今日は前に進まなくっちゃ。
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