2014年9月23日火曜日

双面水照月を観て

 歌舞伎座での初観劇は、先に菊畑があり、その後が法界坊続いてその浄瑠璃物が双面水照月でした。吉右衛門の演ずる法界坊と野分姫の二人の霊が合わさって、この世にあらわれる浄瑠璃に、結構刺激が残りあれこれを考えて、話しています。

 怨みを残して死んでこの世に出てくるなんて、死んだ側のことじゃないわよね。生きている側が怨まれていると思ってしまうから、見えてしまうのでしょう。それは、死ななくってもそうよね。現実の中でもそういう思い込みがあることが多いのじゃないかしら。
 私たちは不信心者なのでしょう。いたって現実対応でお彼岸も過ごしています。
 排外主義というのもそうではないでしょうか。どうしてあそこまで、口汚く他国の文化を貶められるのかと残念です。それはひいては自身の狭量さと劣等性を晒しているだけなのに、そうせざるを得ない何かに動かされているのでしょうか。在りうるのかどうかも不確かなことまでも、事実であるかのごとく、そして些事を厖大に言い立てる。それも、観ているとどこかおどろおどろしい感覚に捉われてしまうのが嫌です。差別も似たような構図なのかもしれないです。そこはもう少し深く考えなければならないのでここでは論とななっていません。真のリーダーとは、そのような人の心の落ち着けどころを、見せていく事ができる言葉をもっている人であってほしい。煽るのではないものです。非業の死を遂げたものを神として祀り、道端の行き倒れはその集落の者が無縁仏として葬ってきたのも、打ち捨てておけない生きている側の論理ではないでしょうか。
 私が、閑居山に居る兄の事をいつまでも気に病むのも、どこかで突き放せない自分自身を不憫にしておきたいことなのです。多分そうです。そして他人様から、身内を放っておいて悠悠自適だとか思われてはと、事業にもなりたたない文庫稼業にあくせくしているつもりなのです。
 さすがの、演技に引き込まれてあれこれ考えて、朝の冷え込みに夜明けを見ます。今日はおはぎを作って、お墓参りをしましょう。有難い親たちは私をも見守っていてくれるのですから。

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