2014年5月29日木曜日

宿るもの



 ベニカナメモチに取り付いている毛虫は、いろいろ考えたり物証を見つけたりすると、どうもマイマイガの幼虫のようです。一度岩洞湖の畔で大発生していた蛾の卵塊に驚いた事があったものです。ベニカナメモチにもまだいますが藤棚でも発見。夕方になると伸び始めた茗荷の群れの葉っぱにも降りています。殺生をします。虫も殺さぬなんて誰が言うのか、連れ合いは何でも私を同等に扱います。いえ、むしろ嫌な事が回ってくるようにも思います。殺虫剤は使いたくないなぁ。なんて、押し付けるのにうってつけの言葉。虫を潰すのは昨春には、あまりにも痛ましく、自分の気持ちも傷ついた感覚があったのに、今獲らないと卵でさらに増えると思うと、躍起になります。藤棚を見上げているので、麦わら帽子を被っていても仰向けでどんどん紫外線を浴びています。肌白が七難隠していたのは遠い話になるのです。
 昨日アップした下の写真の元。この春にあれもこれも閉ざされていた中に芽生えてきたもの。そう、言い知れぬ圧迫感の中であったのですけれど、今まで聞いてきた事をどこまでできるか、三月下旬までは家の中も、ものが大きく移動したり、片付けものも多かったり、閑居山に行ったり、味噌仕込みにあたふたしたり、昨年の種籾がどこにいったやらの管理不全。というより徹底して種は種箱に入れてあっただけでした。それを夫婦して忘れていて情けないお年頃。それどころじゃなかったですからね。そして種籾の塩水選別してみたり、温湯消毒は難しそう。そんな試行錯誤は、発芽育苗なんて、インターネット上の知り合いのプロの生産者の方々の情報に引きずられていました。
 だけど結局、発芽を頑張った苺パックを置いたのは、その前まで米麹の袋を開いていた場所で、なんだか灰色っぽくなる種籾に、慌てて外のミニ田んぼ予定だった旧漬物桶を代掻きもどきをして糠を撒いて、落ち着いたら移した稲たちです。それも藤棚の傍。昨日までは鳥除けにザルをかぶせてありましたが、それを外した写真が昨日のものです。ぜんぜん、田んぼじゃない。
 何も人助けもしてない、自己満足にすぎない。そもそも身内と言いながら兄の窮状すら放っておいて、穀つぶしとは何を言うかと自分を問いながら、自立と協同なんて言えるのか。そこにこそ自立した人格を認められ得るのだからと、さとる。
 毎年、お正月飾り用の稲藁くらいを採っていた継続。今年はどうなるかとも思ったのですが、やはり途絶える事ができなかったのです。
 穀物に宿る力。そしてそれを取り巻く有相無相。信じるという自己肯定。その先に他を信じる事ができるのだと。いつか、誰しもが互いに認め合える。そう菅野栄子さんの言う誰にも不満の無い世の中が来るのだろうと思うのです。
 
 

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