家に時計って本当は無いものじゃなかったのか。なんて、話をして、最低限…一応マハラバ事務所と義母の部屋には掛け時計をかけてあります。カレンダーは予約米のが2013年はあって、連れ合いの机横にはネパールの手漉き紙のネパール暦が下げて有りますが、手帳はもたなくなって2年目。もうそろそろカレンダーや手帳を新年の分など揃えはじめる頃なのでしょう。
そうそう我が社だってお得意様にお配りすれば、いいのに。でも、予定はないです。
そう、予定はない暮らしです。最低限のスケジュールは町会が配る市の広報の当月のカレンダーに書きこんでいます。義母のデイサービスと、ゴミ収集日が優先。
テレビ・・頂いたものがあります。インターネットに代わってきましたね。新聞も取りません。
日の出、夕日、月星。そんな空を見上げるようになりました。雲が行き、月日の傾きを身体で四季と合わせる。庭の実り、隣近所でのやりとりでの食卓。よりくらしの歳時記に近づいたのです。
何かに捉われて生きてきたのだけれど、それって生きるという事の本質だったのかと問い直します。家にカーテンも、スリッパも要らない。そう考えると、時計が不思議なものに見えました。
でも、気を付けます。パソコンやモバイルにばかり向かっているとそれは、また何かに誘導されている生き方になります。
今は、ただ一日一日、場当たりにも思えます。明日は何をする?そんなことが夕食の会話です。それぞれの、予定を確かめて庭の木々や畑の様子を思い浮かべ、そうそうテレビの天気予報は少し足して、今年は何をやっても失敗だけど、何が向き不向きな土地柄なのか、いろいろ試すことができたのです。秋は、今在るものを確かめて、そして次を考えられるのです。
義母の部屋で時計だけが時を刻んでします。
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