2020年9月8日火曜日

村の虹

 昨日は、一日雨予報だったので、いつものテープ起こしの他に短歌の作業やフェイスブックの書き込みなどで、なかなか外に出る事もできなかったのです。その中にアフガニスタンの女子学生支援になるという細密画の塗り絵の紹介もあり、気持ちは西域の彼方に。
 台風10号が過ぎたらしい夕方は、もしかしたら見えるかと思った虹がかかりました。くっきりとした紫から赤までの色が揃っています。しかも良くみるとダブルでした。 
 里山の内側から始まっているようにも見えます。どうも、村の中の上の方の集落から、下の川沿いの集落までの村の虹のようにも見えました。連れ合いにも、虹が出ているよ。と言って、すぐに通りを二軒隣の短歌の先生の住まいにまでご注進。
 92歳はいままでも何回も虹は見ているでしょうけれど、たまたまその午後にも連絡することがあったので、ポストにもメモを入れてありました。、そのことも伝えながら虹見物。雲が早く、陽射しも輝くのに雨が落ちていました。夕陽と虹の方角が解ると、今までに文庫番の見てきていた虹との位置関係が重なってきます。それこそ何重にも幼い時から、今までの虹を重ねた気分になりました。ほんの一時の鮮やかな空の演出は終わっていきました。
 そのあとの夕食の時間はNHKBSプレミアムでもうひとつのシルクロード、という1981年の懐かしい番組。今、21世紀も5分の1過ぎて、このような日中共同制作の文化番組などは作ることができるのかと、思いながら観ていると、なんとニヤ遺跡を訪問しているのは長澤和俊教授、父の書物でもよくお名前を見ていて、この番組を観ていた頃は単に学識者の一人と考えていたのです。
 それが、都内に引っ越して生協で石けんと合成洗剤の違いを学び始めた頃。熱心なタマ先輩が居て、隣区でもあったので、誘われるといろいろな学習会や実験をする時にご一緒しました。タマ先輩は、大学では下山さんの先輩よとOBの会で、長椅子の上に立って話はじめ、OB駆け出しだった自分が、とても楽しめたのも思い出。石けんの活動を数年経てから、彼女長澤瑞さんは、旦那さんが早稲田のシルクロード歴史の教授だと知ったのでした。
 たくさんの懐かしい場面が虹を伝って行き来していたような日でした。

 

2020年8月29日土曜日

空は広く


 


8月27日は、父大仏尊教の生まれてから90年。記録上ではそういう事です。東京府荏原郡上馬、その地もその頃は田舎の風景だったというのですが、私が撮っているのは山梨の中央市の空。今年の遅れていた蕎麦の種も蒔いたのですけれど、どうなるかは未知数。
 そう、どうなるかは未知数でいいではないですか。

2020年8月9日日曜日

お味噌の息吹

 
  今年の味噌のできはどうなのだろうかと、桶を覗き込み、梅雨前の天地返しは功を奏して、黴の一つもないものです。本当に初めての木桶仕込み、自家栽培の大豆。ミートチョッパーで挽いた豆。そして滅多に手に入らない玄米糀。自分としては極上の若味噌になっています。秋になって本格的に食べ始めるのも期待できます。味見は今が爽やかな柔らかさのある新生姜で、夕餉の前の一皿になりました。
 そう、この味噌は長崎の海水の天日干し塩。この木桶は福島の麹屋さんの桶。それが山梨産の大豆を仕込んでいるのです。甲州の暑い夏は味噌の熟成は進みやすいので、悩ましいのですけれどこの滋養が育てるものを考えます。
 この仕様が準ずる味噌のプロジェクトは、秋月医師の二度と繰り返せない実証を下地に、少しでも免疫力を高め、新たな被災者であった飯舘村の人たちの味噌造りを絶やさないために続けているものでした。
 本日に何をなすべきなのか、何に抗い、何に賛同するのか。ただ味噌桶を覗き込み、そこに新たないのちの香しさを確かめるのです。あの松川の仮設住宅での収穫祭にもらった言葉、お味噌がお腹の中で生きている。そう飯舘村のお母さんのお一人は言ってくれました。それは、秋月医師の本を読んでいたとはわからない、純朴な一言でありながら、お味噌の可能性を教えてくれたのでした。
 だから、私は今年味噌を仕込むことができたのです。そして、8月9日にまた味噌の息吹を聴き取ったのです。生きたい!と。

 本日は91年前に文庫番の母が生まれた日でもあります。
 

2020年8月6日木曜日

夏の幻影 


 夏の少女の包は8月6日に届いて、いろいろな動物も緑濃い中に描きこまれて、文庫番は山の中の開け放された畳に寝そべって眺めていた大法輪の中でみた、平山郁夫さんの玄奘三蔵西域行図を思い出します。
 あの開け放たれた空間はもう戻ってこないけれど、西域に行くこともないだろうけれども、ざわついていた気持ちに落ち着きを取り戻せます。
 兄と語らった内容を反芻しても、今日の自分を思っても、本当は気持ちは安らがない。兄は一方通行の、自分だけで組み立ててしまった理論を話していきました。それは父の講義テープを聞いている文庫番に、父と息子とのどれほどの隔たりを感じさせ、そしてなおかつ同じように在りたいという話にも聞こえたのです。
 文庫番は、寄る年波には抗えず、田んぼの楽しさにちょっと休みをしています。
それはそうで、仕方がない事ばかり、別に新型インフルエンザでもないし、新型…新型爆弾って、あったのですよ。
 言葉は、どう使うのか、情報はどこから来るのか落ち着いて自分は自分自身でなければならないのです。75年前であっても、現在でも言葉は難しい。
 一枚ずつ、CDに焼き直したテープを聴き取り文字に起こす作業を進めながら、父の年譜を直していって、今、落ち着いた気持ちでマハラバを生きる事を書いています。
 本当にお盆前には書き上げ、茨城に送ることができるでしょうか。

8月6日 広島原爆忌




 

2020年7月27日月曜日

大仏空 テープ2-3 トッラックNo.1から


 親鸞というものを中心にね、日本の念仏思想というか浄土教というものを中心に一つの体系みたいなものを作りたいと、まあ思っているわけだけれども、それはね、親鸞を中心にするということは良いんだけれども、まあそこらへんなのだと思うけれども、僕の発想というかな、一番基礎にあるものは、どういうふうに言えばいいのかな、土着的なもの、への志向と言ったら良い。それは、民衆の中に根強く残っている、ずっと残ってきたしこれからも残っていくだろう、日本人の持っている土着的なもの。それが念仏という形をとって今日まで来ている。そこら辺のところを纏める。というのがねらいなんだね。それは土着的なものが浄土教思想とまとまったのは、この間から書いてきている「さび」という形になるんだと思うけれども、だからどうしても日本の神話とかね、その神話ができてくる背景とかね、そういったもの。ちょっと親鸞には無関係だと思うようなもの、をやはり丹念に拾い上げていって、それをこう纏めるには整理しなければならないと思うけれど、整理の仕方でもっては方向付けられる一種の危険があるけれども、まず最初に雑然としてもいいから、ともかくやたらと採りまくってみることだと思っているんだ。
そして、そういう目で見ると一遍という人物はどうしても欠かせないと思う。一遍念佛、親鸞さんから見れば後輩にあたる人なんだけれども、これはすごく民族、みんぞくという場合はナショナル、ネイションという意味と、それからもう一つはフォークロアのフォークの方だね、両方ひっかけて民俗的だね。彼の場合は。土俗的なんだね。
大仏空 テープ2-3 トッラックNo.1抄

 長雨の続く7月26日。父の講義テープを起こしています。
この日は父と母の結婚記念日だと言われていて、私の故郷では夏祭り。祇園とかまちとか読んでいたお祭りは、今でもやっているのでしょうか。今年は長雨だし、家籠りだから、続いていてもやっていない事でしょう。
 もう、文庫番としては、いつまで父の研究の書き起こし、整合ができるのか自信はないのですが、骨子としてしたかった事を自分で語っているところがあったので、アップをしておきます。
 テープは2バージョンはあると考えているので、どのように纏めたら、語っている内容の筋道ができるか。もう少し自分に許される時間があればと思っています。


2020年7月8日水曜日

父祖の地に



 世の中はいまだ永続的な同調自粛をしなければならないのかもしれないけれど、父の命日でもある7月6日に、山梨から東京は通り抜けて茨城県に出かけたのです。怖いもの知らずの無鉄砲だなぁ。。私が行きは運転。
 田んぼの草取りで疲れた身体を休めるにもと一泊で、父祖の地を訪れる短い旅。中学生くらいの時だったでしょうか。父と兄と一緒に祖父の本籍の家に行ったのは。父は私たちをこの霞ヶ浦南端の地へ連れて行ってくれた時には、50年近く経って私が再訪することは考えていなかったと思います。兄は覚えているのでしょうか。
 祖父大佛晃雄が長男であったにも関わらず、跡目をとらなかったのは、一部流布している情報とは違い、曾祖母の家に婿と入った曾祖父と、祖父との関係であったと私が聞いてきたことの確かめでもありました。
 遠縁の叔母が、もう居ないんじゃないの。と言ってくれたように、祖父の出た家とは特定ができなかったのですが、その地の風景は私の記憶に新しく刻まれました。
 
 ちょうど梅雨前線からの雨は列島を覆い、九州では大きな被害も出ている今年。この渺渺たる湖面を思う時、祖父が生まれた年から明治を考えると、祖父が、渡良瀬の谷中の人たちに寄せた思いというのが、重なります。祖父の継いだ大佛の曽祖父の寺のあった土地でもあるところに、私は来ることができたのだと今回の旅を思いきって決めた連れ合いに感謝です。ただ、私たちが茨城を離れても40年近くなり、さまざまな記憶が薄れていて、父とともにあちこち行った事は二人の間でも覚えている内容に相違があるのです。
 今回で気持ちの上では一つ区切りとしていくことができます。歴史の中で伝わる事、伝わらないことよりも今、どう伝えるかが大切なのでしょう。宿から眺める景色の中に大きなギンヤンマが何頭も飛び交っています。強風が渦巻くように木立も大きく揺れるというのに、この大型のドラゴンフライは自由に風をあやつっているようにも見えました。空(くう)を生きている龍のようです。
 新利根川沿いを土浦方面に車を走らせるのですが、荒れて水嵩も増している土色の川に何艘もの漁をする川舟が出ています。ああ、これが霞ヶ浦湖賊の裔なのだと、祖父は褌の湿り具合で天候を読んでいた。と父が語っていた言葉が符合します。天気図やニュースだけであれば、自宅で安全を計っているかもしれないのに、川面を見て風を雲を読んで、くらしを立てている。変な自粛をしていない漁民の姿が、前の世代の生き方を継いでいるように見えました。人の生き方は営々とあるのです。
 筑波山神社にまで今回は行くことになって、東日本大震災直前に行って以来なのですが、大きく参道が変わった感じです。震災で石段がほとんど崩れたとも聞いたことがありますが、約10年ぶりです。行楽の山。憩いの山は、今は人のお参りが無いご時節。
 今年の秋の紅葉の季節には多くの人が登るでしょうか。拝殿に掲げられている御祭神と摂社を確かめます。ここにはアマテラスとともに蛭子も祀られています。一部おかしいニュースでアマテラスの子孫の誰々という言い方があるというのですが、それは蛭子もともに祖であることも言わなければなりません。
 ともに祖神は同じだというのが、神話の世界です。

2020年4月28日火曜日

その男・・・



  御多分に漏れず、外出をしないということで、籠り気味なので読書。
「愛情はふる星のごとく」上、下。私にはこの時代の諜報活動は今の時代よりもさらに謎だから、その点には興味が無かったのだけれども、手にしたあとがきに、旧茨城三区の風見章の文章があったので、母に渡してあったものなのです。
 母には、母のさまざまな思いの中で読んだことだと思うのです。あまり風見さんの事は語らなかったのでした。細田さんや池田さんは父も先生と呼んでいました。
 今頃、こういう状況で、あとがきだけでなく、内容も読んでみているのです。著者の処刑された後にご夫人から出されている書簡集ということで、息詰まるような時間が判っている中でのやりとりです。
 戦前の知性とか教養とかを改めて読む思いですが、第一級の見識を持っていたのでしょう。事件の真相については読んだからといって解るものではありません。一番感じるのは、尾崎秀実が家庭教育ということにどれほど思いを降り注いでいたのかという事です。
 その責任が父親という立場にはあるという思いがひしと伝わるのです。
 今の時代に、競争原理のレールの教育だけを子どもに与える家庭が多く、学校の休業で、ついていけなくなる、という心配をしているのとは、以前の家庭教育の重みは違っていたのです。
 せっかく、学校が休業となったのであれば、大きく歴史や社会の見方も含めて、いやな言葉だけれど子女に与えられる親がもっと居てもいいのにと願います。
 ラナンキュラスの花が咲いたのを見て、どの花もしっかり咲いていると眺めながら、花は人間の顔をどのようにみるのだろうとふと思いました。花から見たら個々人の違いなど関係なしに、「人間」なのでしょうか。
 ついでにてんでな向きで出てきたウルイの写真。文庫の庭には三株のウルイ(ギボウシ)があるのですが、この二株は今までとは違う場所に移し替えたら、新芽の出方も面白いのです。間違って鈴蘭かとどきどきしていましたが、ここまで伸びるとウルイに間違いないようです。