2014年11月23日日曜日
洗って干して
まるで農家の庭先みたいになったね。と薪作業から戻った連れ合いが言います。
連れ合いは山に薪作業に、私は(川ではないです!)流しで胡麻洗いに。
大豆の代わりに白胡麻はこんなに採れました。
昨年の何倍でしょう。さて一冬手選別した昨年の胡麻。今年は箕の大きいのをいただいたので、第一歩の篩と箕で払うのは楽にできたのですが、それから先の作業が、量に見合った智慧が増えていないので、前回と同じ水選別をしようとしても思うように比重が活かせません。
量とは、作業なのだとしみじみ理解。手づくりでできる事とそれを超えた量についてどう考えられるのか、農家ではないですから、自家消費。もっと言えば自分の食べる分をさも事大に騒いでいます。もらった種から実って増えた胡麻化しの術。
昨日朝のテレビはなにやらいい夫婦の日とか、騒ぎ立て、また何やらの宣伝のために日ができたのかと、言っていた連れ合いが、お昼か夜は外で食べようかというので、もしや、いい夫婦のプレゼントでもと期待はしても、持ち帰ったのはお手本夫婦の物。
それはそれとして、以前の仕事から、百貨店の方が何かと動き回りの判断しやすい連れ合いと、先週と今週と地域一番店に行ってみたのです。 どのフロアーもギフトセンターも、三連休初日の土曜日なのに閑散としています。並ぶ必要もなくお会計でした。
二、三日前の朝のテレビで福井の百貨店さんが、外商ではなく、地域貢献みたいに、お年寄りのご自宅に出向いて注文受けていたのを見たは、と来る途中の車の中での会話だったのですが、一歩店内に入って、地域貢献になっちゃってるね。と連れ合いは言いました。先週は平日の昼間のうちに、県庁あたりから歩いてみて、地方核(この字か!)都市の役割の荒廃をどうすればいいのかと、自分たちのこれからの暮らしを考え合わせ、なんとかならないかと思います。
外に出て夕食をとろうとしても、繁華街と呼ぶには、少しさびしい。ちょっと気持ちの浮き立つ外食を、新宿、渋谷をイメージしてはならないのでした。冬のギフトシーズンの商店街が三連休初日の土曜日から、シャッターになって。と話しても。じゃあ、文庫がお店を出したからって。。。
ここで、いろいろと世の中の何にお金がかかるのかを考えてみます。自分で食べる分と、歩ける範囲のものは物々交換。土地で採れないものを得る時や少し遠いところに送る物流は掛かります。医療と教育とよく言われるけれど、薬とマッチポンプの検診とか、競争を学ぶ教育とかを公的のみにされても困るし。解散したといっても政治の向く先はどうしても、その範囲にではないかと思えてしまいます。政治の汚れも洗って干して選り分けたいものです。
庭先や里山畑で作業をしていると、地域の人たちは良く見ているのです。そして何かの折にちょっとだけ教えてくれます。それを素直に学んで、育つ。それも良いけれど、競争でない生き方を教えるアカデミックが体系としてあればよいのでしょう。本来のお寺の機能なのですけれどね。
スカイツリー下塾の学びは、自分たちがやってきたことは間違いないのねという発言に勇気づけられる、自分たちの学びだったと考えています。
現在の学制が、明治以降のものだから、税金で建てられるのが前提で、それにお金がかかって、税金が必要で、地域の防災や開発も、信玄堤にしたって棒道にしたって、軍事絡みなのは、どこの地域でも同じ。修験の道が実は隠密道でもあったのだし。
もっと原初の共同体だったらどうなのかといつも思うのです。それには、もう少し仕組みを改めるかして、今の集中・分散の歪みと荒みを選り分ける作業をしないとならないのです。社会がめざすものを描きなおすということを。
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