2014年6月11日水曜日

入梅(雑節)


 暦の上での入梅の日になって、間もなく咲きそうです。我が家は昨年からこの浜木綿の里親。川に面したところに植えました。どれほど水が欲しかったのだろうと。
 経てきた時間。これからの時間。何を語る事ができるのでしょう。どのような集いを催すことができるでしょう。季節の折々に。
 その年によって、人の在り方も、花の咲き方も見え方が違うのだと春ならぬ梅雨時ですら思います。さつきはほとんど花のあとを片付けて、蛍を見ながら夜の一時を憩うのです。
 文庫の会社はやっと申告も納税も終えたのに、個人である文庫番に通知がきたので、誰の扶養でもないけれど所得の無いと窓口に届けてきます。これから先も自分の力で。。。生計は配偶者の家計で。この程度じゃ駄目と情けなくもなるのです。せめて役員報酬の出る売上があれば、大手を振れるのに。人の在り方。そう、この世での人の在り方は縛られるものも多いのが現実。
 連れ合いにも、余分な負担をさらに掛けることをしながら、採算事業にならぬことばかり。ただ、昨日役所の窓口に出向いて行って、今迄の状況とは違う年金生活の中での世帯であることも、再確認します。小さい目で見れば自分の先々が茫漠とします。
 社会の中を考えれば、社会保障制度ってどうなっていくのだろうと、その行方を論じているはずの場を、他人事として考えてはならないのだけれど、とネットの情報を拾ったりします。それでも、また別な見方をすべきなんだ。新しい軸を社会に立てなきゃならないんだと、くじけそうな里山畑の周りの耕されていない畑。収穫されない実りを眺めながら思うのです。シルクの里の桑の実は誰も拾わずに、すでに廃れた匂いになってきました。第一次産業の人口は文庫番の子どもの頃から考えれば激減しているのです。機械化で補えるものではなかったのじゃないか、中山間地とは。もっと早くに人の優しさを身体的に活かせる文化だった事を思い出すべきだったのです。くらしとは機械の僕ではないのです。いつの間にか払わなければならないお金の額がどこの家庭でも家計の中に出来てしまって、それが他の人を生かすために使われるはずなのに、集められた結果は、集団!。発するところが個別な身体的なものであったのなら、そこで醸し出される文化は、個々別々に益するのが順当なのに。
被爆浜木綿は文庫番に大きな目で見えることを教えてくれるのでしょう。
 
 
 

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