美味しいね。幸せだね。と暖かい分け合いのものを調理して食べています。文庫番の勝手で。
釣った人も、産地も分かって、こういうゆっくりとした時間を味わえて、ひとつひとつの取り合わせも嬉しいのです。頭から尻尾まで、骨の髄までです。肝心な肝も使ってしまいます。
そして、遠近の到来物。こういう確かな関係があって、それでもこの季節に、信頼ということ、確かめられる食べ物について考えます。
信頼はどこから生まれるのか、互いに同等ないのちだと知った時に。そうなのです。そしてその事を忘れないようにし続ける努力が解った時に。再びの信頼になるのです。誠実であること、互いに足りない事をさらけだすことができてこそです。秘密とか嘘とかをずっと持たなければならないような関係であったら、寂しいだけですね。薄っぺらな関係というか。・・・この話はここではやめにしましょう。
互いに同等ないのちであること。私はたら腹食べられる。一方で、餓えているものが居るのかもしれません。それはとても辛いことです。もし手をとって一緒に歩めるのであったなら、その相手の在り方を丸ごと受け止めるところからです。
高校時代にバス通学で、いつもたった一人の乗り降りのバス停の傍に、大きなネズミの死骸があって、数日曝されていて、雨でぶよぶよになったものに、どうしても吐き気のこみ上げるような感じがして、父となにかの話しで、違いについて、区別と差別からだったか、どうしても生まれてくる感情について論じたときに、例に出しました。
そんな事はないんじゃないか。と教えられました。あくまでも主観だったと知らされたのです。それを大切な食糧とする人たちもいるのじゃないかと。その頃は、それを聞いても嫌だったのです。
食の深さを知ってきて、自分の体験とは違う食べ方も想像力を働かせなければならないと知って。指定外なんて、想像力が足りない時に起きることばですね。めざしてきた社会は、持ち寄って、そして分かち合うことでくらしが成り立つのに、そのたしなみを置き忘れると信頼がなりたたないのです。我勝ちに囲い込んで、なかったような振る舞いをして、秘密を恐れて余計にだらしなく見えるようです。それを乗り越えるには新しいやりとりを認められる仕組みを創っていくしかないのだと、何か今自分の周りに大きな渦が回りだしたことを感じるのです。
義父の一周忌、納骨が済んで、やっと次の段階が見えてきたのでしょう。先をつくらなければ。
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