2012年10月15日月曜日

内なる主体と、外なる主体

  秋の連続講座を進めながら考えているのは、協同をことば化するという一方で語ろうとしてこなかった主体とは何なのかを、探すことであったのですが、三回を重ねて面白くなってきました。
 

 一般的に主体性を言うと、個人の人格について沿うことなのでしょうけれど、一人一人が、物事の主体者であるのは当然であるのですが、組織に対する主体性または国に対するアイディンティティとも言われる個人の存在価値。
  組織が問われる時に、そこの主体であるものが何なのかが問われるのだと考えます。協同という崇高でありながら、実態の表現しにくいものの中で考えると、一段、悪い言い方だと、責任のなすりつけ合う、生ぬるいものが、主体としてのし歩くことになります。
 協同の社会となると、組織ではないわけですから、さらに、 始末の形が解りません。
 それでも、人が一人では生きられないのであれば、互いに気持ちよく生きられるようになっていなければ、逆の締め付け合う協同が出てきます。
  そうじゃないよね。と。そこを語る企画は、自分が、やりたいと思ったから、楽しかったから。そして覚悟があって。そんな話がたくさん与えられるのです。主催者はお茶くみでいいかな。機会を持てたことが第一の成果です。

 その話者によって、一つの地域で経てきた活動を多面的になおかつ、くらしからの視点で語ることを重ねてきて、浮かび上がるのは、話者のその人柄・人格・言い換えるならば主体的にかかわって生きている姿なのです。この人たちと一緒に活動してきたから、ちゃらんぽらんな文庫番が今でも、なんとか、くらしからのことばを、考えることをし続けられるのです。
 責任を取る意思のあるものの集まり。協同組合原則にあるのですが、くらしの責任は、事業にあるのではないのです。個々の暮らしの中にあって、だからこそ、他の人の暮らしへも、配慮ができる事。それは、原則として誰に書かれるものでもなく、なんらかの組織に固有のものではなく、自分が生きる意志を持つものが、掲げるものであるはずです。
  くらしの主体。もしくは生きているという主体が自分自身であることは揺るがないのです。そこをブレない時に、協同する意味が出てきます。
  個人の思い、くらしからの出発が、何を求めてきたのかをその人自身のことばで語ってもらう事で、そのことを他から見た場合には、こうだったという事ができるようになります。その時に、また語った本人が、自己の姿を観ることもできるようになります。
  この世紀、いえ。人間の歴史が、主体と協同を、別な表現でも求めて続けてきて、それでもなお、苦しい人々の居る。自分であることを見失う若者や老人たちの多くいる社会となっているならば、もう一度。何度でも!私はここに生きている。と叫ぶのです。

一如

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