2011年9月23日金曜日

何か変わった

 花は紅 柳は緑 何を季節はずれなとなりますが、今朝、空気が変化し、季節が移ったのが感じられました。その意味を考えていたら、憑き物が落ちるように、整理されてきたように考え方がまとまってきたのです。
 私の挨拶で、自分で一番覚えているのは「花は紅 柳は緑」でしょうか。東京駅から春の修学旅行で京都へ向かう中学校の生徒たちに話したものです。春の京都であるがままのものを感じていらっしゃいとあなたたちもあなたたち自身なのだからと。中学生という多感な身体も精神も伸びていく年齢の生徒たちへの挨拶から経験したことが、その後の私には、大変役立った真剣なやりとりでした。もちろん東京駅集合に間に合うように急ぎながら、花は緑柳は紅と間違わない様にと、心したのです。その学年の子たちは、秋の文化祭のテーマを、「To be Natural」 として返してくれたのでした。挨拶は一方的に自分を語るのではなくやりとりできる投げかけなのだと知ったのです。
 今朝は、お彼岸の中日。秋分だったのです。そして野分のあと。相対性理論は崩れたのでしょうか。それでも、不可逆である時間と、天文の巡りからの季節の繰り返しに折り合いを付け、その日に縁のあった人を偲ぶ折り目をいれた生き方の智恵。無理のないあるがままの朝の空気を受け止められました。
 玄関先には台風の置き土産の落ち葉の吹きだまりができていました。それを掃きながら、または階段の埃を拭きながら、シュリー・バンドクにお釈迦さまが諭した内容を、また思い出したのです。自分のこころも、繰り返し繰り返し、浄めていくのだと。いくらでも捉われるように、吹きだまりもできるけれど、また、最初からやり直せばいいのだと、お彼岸にやっと思い出せました。生成りはあるがままなのです。きっと新しいことばが生まれる兆しなのです。

0 件のコメント: