今年のすみだこまちは出来が悪かった。実も少ないようです。
2010年8月27日金曜日
生誕80年
父が生まれてから80年経ったわけです。
45歳の時の文章を、マハラバ文庫にアップしました。8月後半はほとんどがこの写し作業でした。
いくつかの誤字を直しましたが、原則的な部分はそのまま。
徳一の出生など、通説とは違うので、少々原典資料が何だったのかを、確かめたいところがありますが、現状ではできません。
独特のカタカナ遣いも、写しながら、戸惑うところもありましたが、やっと、ともかく5年目でここまでできたという感じです。この「異端の系譜」で、今まで散発のようにあった、論文の体系化ができます。
再度、新解放理論研究会の全体を読みなおしました。
45歳の時の文章を、マハラバ文庫にアップしました。8月後半はほとんどがこの写し作業でした。
いくつかの誤字を直しましたが、原則的な部分はそのまま。
徳一の出生など、通説とは違うので、少々原典資料が何だったのかを、確かめたいところがありますが、現状ではできません。
独特のカタカナ遣いも、写しながら、戸惑うところもありましたが、やっと、ともかく5年目でここまでできたという感じです。この「異端の系譜」で、今まで散発のようにあった、論文の体系化ができます。
再度、新解放理論研究会の全体を読みなおしました。
2010年8月21日土曜日
紫蘇シャーベット
本日は雨水探検隊の川の生き物観察会。小学生とその保護者の引率で江戸川新八用水の魚類調査に混ぜていただき、道すがらママのじゃむのお店の紹介(写真は冬)。
江戸川に出るには墨田の子供達を押上から京成線に乗せ、高砂で乗り換え(駅が改装されていて階段登って改札でてから、金町行きホーム)て、柴又。寅さん記念館を越えて河川敷ですが、帝釈天参道横のママのじゃむを、地図に入れ、帰りの信号待ちに寄りました。
水ガキ養成講座ですから、疲れ切って、のどはカラカラのところ、紫蘇シャーベットをいただきました。
感激でした。口の中は清涼になって、知人はジャムを買い、参加者で現地解散の方々には再度お知らせして、私は帰りまで引率でしたので、挨拶だけでしたが、次回は買わなけりゃ。
2010年8月15日日曜日
2010年7月6日火曜日
25年経って
父が逝ってから、もう26年過ぎた事になります。25年忌も母の体調を理由として、行いませんでした。
墓もなければ法要も行わず、寺の住職であったという事だけが残っているのも、不信心な娘を持っていたからと、諦めている気がします。
やっと、気持ちの整理ができたのかもしれない。25年過ぎて、振り返る事ができるようになったのか、客観的に考えられるようになりました。
まだ、文庫の形にはなっていないけれど、それでも父の持っていた本の一部を保管し続け、在り方を問い続け、文庫番自身の経てきた事も、母親の存在も。少しだけですけれど、感情を離して考えられる年月になっているようです。
墓もなければ法要も行わず、寺の住職であったという事だけが残っているのも、不信心な娘を持っていたからと、諦めている気がします。
やっと、気持ちの整理ができたのかもしれない。25年過ぎて、振り返る事ができるようになったのか、客観的に考えられるようになりました。
まだ、文庫の形にはなっていないけれど、それでも父の持っていた本の一部を保管し続け、在り方を問い続け、文庫番自身の経てきた事も、母親の存在も。少しだけですけれど、感情を離して考えられる年月になっているようです。
2010年6月14日月曜日
2010年6月6日日曜日
6月6日
一年、ホームページの形態を変えてみた。株式会社のサイトをどう表現するのかが難しい。個人と法人との二つの人格を表しながら、一人で運営するというのは、本来のひとの生理からは外れているのだろうと思う。ジャン・ジャック・ルソーの本などを読んでいたのは高校時代。社会制度がきしんでいるのは、明治以降の欧化の無理からあるのだろうか。現実には地球全体が、一辺倒の考え方では表現できないと言っているのだから、じっくり、序々に変化していくのだろうけれど、まだ、しばらくこのサイトの形で個人と法人の別を表現しながら、マハラバ文庫の文庫番でいなければと思うし、宿題となっていることもしないとならない。家族の中にもいろいろと変化があって、下の娘は家に戻ってきて非常に助かっている。
2010年5月29日土曜日
筋を通せない
5月を終える前に、少し書類資料の整理を・・・・。始めても読みふける半日になります。まだ出してあるホットカーペットの上で文箱開けたりしながら、白保のサンゴ礁を守ろうとあったのが1984年。だったのか、平良さんからの呼びかけかなど見たりして、そうそうこのころは大仏の姓で書いていこうとしていたのだったけど、今はどちらも使う両姓使用をしているのは、間に自他との在り方について、頓着しなくなったからだろうか。家とは、夫婦とは?自でありまた他であり・・・・。そんな感じで通そうとした筋が見えなくなって、右往左往。右も左もあっても良いか、それも在り。そのような時期を経て多くの人が呼ぶ文庫番でしかなくなったのでしょう。
今読みなおしていた本で思い出した、父の文章。これも署名はしてないけれど、和尚の思想の一部となっているものです。マハラバ文庫でアップしていかないとならないのかしら。父はなぜこれには署名をしなかったのでしょうね。なんだかごちゃごちゃと整理のついてない曇りの日です。
2010年5月20日木曜日
綿入れちゃんちゃんこ
今、こういう仕事をする人は居なくなったわね。というよりはこれは、お母さんへの心だわ。そして、ボクちゃんへのカネさんの思いね。よほど、大事な息子さんを託して、その感謝の思いでしょう。自分の請けた仕事の中から少しずつを取りわけて、そして柄も合わせて作ってくれたのね。大事にお母さんが着なけりゃ駄目じゃない。というと、私に持たせようとしたのを、また大事に衣装箱に戻してあります。
CPの息子を預けた、母親が一針ずつ仕立てて、綿を入れて作ってくれたものです。こういう一点ものは、粗末にはできないものです。この息子さんは、山形県での青い芝の中心で動いてくれていました。もう30年近く母は仕舞いこんであります。先日、季節の入れ替え手伝って、私に持っていけと言うのを、止めたのです。母に着て欲しいという、同じ母親としての思いだったのだろうなと、いつか受け継ぐかも知れないとも思いながらでした。
2010年5月6日木曜日
2010年5月3日月曜日
2010年4月25日日曜日
2010年4月21日水曜日
旅人
月日は百代(はくたい)の過客にして 行きかふ年も又旅人也・・・・と読みだして、昨日は、朗読の会の発表会でした。おくのほそ道。旅人への尽きぬ憧れを多くの人が持ちながら、それを作品とするまでに、この書き出しに五年松尾芭蕉はかかっているという、先生の講義に、一語一句読み取りながら声に出し、耳で聞いてまた、身体にそのリズムを埋めていき、自分の朗読とする。上手下手ではなくて、自分なりの読み方を創っていくのだそうです。
日光の開基は空海じゃなくて、徳一太師ではないかとか、ふっと疑問を感じるとそこで言葉につっかえリズムが乱れ、旅へのいざないも、文の道への楽しみも崩れるので、ひたすら、音と身体のリズムを合わせ、呼吸を整えやっと、一節を読み終えると、読みこんでそらで言えるようにとさらなる指導が・・・。
ひとは皆、旅人。
2010年4月17日土曜日
カムイの言霊
常磐線の時間を有効にと本を携えて乗ります。チカップ美恵子さんの本は初めてになるのですが、彼女とは、「ときわ路」に父の文章が載った号に「私は生きたアイヌである」という題名でアイヌ肖像権裁判への文章を書かれていたので、コンタクトをして二度ほどお会いしたのです。母も母自身の活動の中でお会いしていて、この本を読んでいるのよと見せると、「あら、確か亡くなったのよ」というので驚いて検索すると、今年の2月5日だったようです。この本の後書きにも闘病についても書かれています。
私は生きたアイヌという内容には、その当時、障害者と健全者という二項対立でしか考えられず、どちらに自分は位置を定めて社会を観ているのかなど、僅かな語句の中でわけがわからなくなっていた私への大きな衝撃をもたらしたものだったのです。お嬢さんともその時にお会いしたはずと、今残されてどうされているのかと思います。
極めて、はっきりとした自己存在についての筋道のある言葉をいただけたと、今さらに思います。
2010年4月7日水曜日
もう少しカラッと
花見の天気も湿りがちです。呼びかけのあった座り込みも冷えそうで、気にはなっても行かなかったのです。そんな、連れ合いの休日に揚げた天ぷらは、読谷漁協からの帰り道に頬張っていた「もずく天」ふうに、玉葱・人参を入れました。
自分たちのおやつ代わりだったんです。と運転しながら話されてました。うっかり食べてしまって、上手く撮れていなかった文庫番は、今日は、食べる事は主張だ!!と作っているのですが、もずくを刻むのを忘れました。もっとカラッとしたものを御馳走してもらったのになぁ。
恩納村もずく、多く戻したので、お味噌汁にも入れました。これは写したら湯気で曇ってしまいました。
小鉢物も作りました。茨城の母の近くにある、JA直売所で買ったエシャロットの酢味噌和え。・・・茨城のは、官民共用でしたっけ。
2010年1月14日木曜日
相変わらず
今年の年賀状?昨年のというべきなのかスローペースで書いていましたが、枚数も尽きてここらでお終いにします。毎年、雰囲気で自分の一文字を書いて、あとは下手な文字を書き連ねて、お正月気分。
だから、この怪しげなピンク。ベニヤにペンキで書いた経験もないけれど、ピンクになぜなったのかも、その時の雰囲気だったのですけれど、数年、一字を書いています。
音でも訓でも、それは読んでもらって、と出しっぱなしの年賀状でした。今回は年末の母の体調不良などもあって、遅々として進まず旧正月に間に合えば良いという説に同意をしていましたが、やはり、タイミングを外したと思っています。
どうしてこの字が今年の文字なのかは、書いた本人も判然とはしないのです。(毎年そうですが)
学ぶということが、自我との関連であると、陸象山のことばにあるようですが、まだ理解できていません。
2010年1月8日金曜日
グリップが効いて
なおかつ、しなりが良いものでないと使いにくいのです。
年末年始、私があれこれ忙しく間に合わないので、大掃除を勇んで連れ合いがします。
はたきの房を飛ばしてしまいました。一月三日、深川不動に自転車で行くのに、砂町銀座を通り抜けますので、いくつかの買い物リスト。一番に竹の柄のはたきを探します。そんじょそこらの100均ショップでも、はたきはあるのですが、そういうのでは、納得できないと私の主張。いまどきそんなものと三が日の内にどこで、と思ったら、昔ながらの荒物屋さんを覗き込んで、(看板は合鍵スピード作成でした。)あの玄関箒のあたりにあるかもと、暗い店内に入ったら、この明るいピンクのはたきが一本だけありました。
これでなきゃってお客さんがいるんですよ。この羽二重の布が埃を落とすのに散らからなくって。確かにそうでした。柄だけの問題じゃなかったと、納得しました。
もっと仕入れておいてください。と言うと、大丈夫いっぱいありますよ。ということです。義母や母の分も買いに来ようと思いました。それとも、連れ合い専用のがあるといいのかしら。
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