2016年10月1日土曜日

2016年8月29日月曜日

のびやかな歌声で


 オホーツクの舟歌を父が歌い上げていたのは、知床旅情の第二次ブームの頃だったでしょうか。お前らこんなの知っているかというふうなのですよ。は~まなしの咲く頃。そして一くさり、森繁のシベリアを話していたのです。ハナマスの花を、母の生まれの北海道を唄うように、その不器用な表現を知りつつ、母娘の会話は何気ない日常の事を語っていたのでした。おも~いだ~しておくれ お れたちのことを~〽。
 
父の誕生日、そして昨年の次女の手術日にあたる今年の27日28日.は、遠出でした。
 この二三日はエポックとなるのです。
 昨年の骨髄移植手術の日、その後の定着を待つ日頃は回復の道を見ることしか考えようが無かったのでした。

父の事も書き残したい、でもそれとは別な旋律を奏でているのが、文庫番にはこころの裡に聞こえてきているのです。そして、今いるところから見る秋の空に。


2016年8月15日月曜日

己の地獄

 さまざまに、今日は、大勢な人が他界との交信をする日なのでしょう。8月15日。
我が家では新盆でもあったのですけれど、その集まりはまた文庫番の母の骨をどうするかという話でもありました。マハラバの母。
 そして、父の別府での受洗の日であったこと。当時何を思いこの日となったのか。今の私には解らないのです。
 やはり、敗戦の日なのよと母が、思案した上で言ったこと、常日頃、父はそういう名付けには、拘らないふうをしていたこと。
 盂蘭盆会。お盆休みには、県立施設から戻って来ていた人たちが、閑居山に連れて来られていた夏休み。その食事代がマハラバの経済を潤していたのも事実。その中に私達兄妹は居た訳です。
 娘が昨秋、病んだままに退院していた時期に、兄は土浦駅での托鉢、小競り合いでの暴力行為で収監。再犯となった経緯などが伝わってきました。病院との行き来の日々が続いていた中に母の生涯を書いた「無縁の地平に」まで出していた私は、知る由も無かったし、伝え聞けば兄からは当然私のところへはもう、知らせるつもりは無かっただろうと言う気持ち。その言い分が通るのかどうか、閻魔様ではない者には判じられないことです。
 飢餓も貧困も、五陰盛苦の地獄のさまも、合わせ鏡で、自分を写します。人生の成り行きでの今と昔。そして、なんの保証もない先の姿を考えます。どうしても、今の貧困問題への取り組みへの参加はできていないのです。社会運動にはならない自分が感じられるのです。身の内の問題であり、それを切り捨てて生きる自分の在り方しか見えない日常の中の事になるのです。
 己の地獄を見極めよと、父の言葉になっている。その己とはなにであったのか。
人の在り方は一面からだけでは語る事ができないから、加害の意味も含めて、侵略戦争をはじめていったことも事実として、敗戦の意味に含めて、と7月のはじめに話したら、7月26日に相模原で起きた事件は、重度障害者には生きている価値がないという、それだけで、施設内の人を殺傷していくという思考。彼は、以前はその施設の職員として働いていたこともあったというのでした。
 一つには、あのマハラバ村から、親たちは施設コロニーを選んで行ったことからも、障害者福祉の、いや、今見えている高齢者福祉のあり方も施設収容型を福祉行政としてきた社会であったこと。社会の中で、地域の中で、そして家族の中で、重度障害者の自立と生存を、閉じ込めている中に雇用の場としての施設が増え続けてきたのが日本社会であったのです。
 市場経済の中での優勝劣敗の序列、行きつく先は富国強兵の劣者排除の思想。しかし不条理は、介護する側にもままならずあるという人間。その解決は自分たちで掴み取るしかないから叫べと。社会に対して自分の存在していることを問えと。その社会とは。外が内であり、内が外である、自分自身に対して叫べという。社会を糾弾する時に、それは己が姿であるのだと。
 障害者とともに暮らすということは、その中で、序列は生みださなかったのか。なぜ、父の傷害事件は起こったのか。
 そういうぐるぐるした思考の中で、選んだ「個]とは何かという文庫番の長い課題。名乗るということでと抗って来た、その苗字ですら、兄は、何の相談もなしに、私のこだわりを飛び越えてその苗字を名乗るものを決めていたというのだけれど、それは兄の事情です。
 合わせ鏡のように、加害と被害は照らし合って、像を結ぼうとしているけれど、僅かな角度で見える姿が全然、別なものになっていく。観えるというのは、あくまでも主観の世界にすぎないのだから。
 相模原の事件の犯人は、その差別の意識は、優生思想というものは、「あちら側」にだけあるのではなく、己が内にあるものだと、震撼するのです。
 私たちはちっぽけな人生の中で、加害も被害も抱え込んで生きているのです。一人で抱え込んでは押し潰されてしまうから、伝え教えられて救われるのです。伝教。
 私は、この慰霊の日である他の世界と交信する日に、この一月あまりの間に、重ね合わさった事柄を振り返り考えます。

2016年7月30日土曜日

抜いた後に



 うずら豆が大風で倒れてその後の雨続きに莢も泥まみれになって、心配していたけれど梅雨明けした日の午後に、豆を採りました。この中から良いものを選り分けて、冬のストーブの上で煮るのを楽しみにします。山梨に来て大雪の後、最初に行った西山温泉への途中で売っていたうずら豆の数粒を取り除けて、煮豆一回くらいの収穫でしたけれど、今年の一畝からは笊一杯。
 選り分けると言えば、今年は全然トマトが上手くいってなかったのです。買った苗はどうも調子よくないと抜いたはずなのに、その草だらけになった後に、脇芽なのでしょうか残った根のヒコバエなのか、また一本生えていました。それだけで、数日嫌な知らせに気持ちが塞いでいたのが、まだまだ頑張れると、思えたのです。庭には、昨年のこぼれ種からなのか、ミニトマトらしい苗も三本も生えています。思いがけないものは買った苗より丈夫そうなのです。
 小さな喜び、それだけでうれしいものです。


2016年7月26日火曜日

叫ぶしか


 
 この50年、どう変わってきたのか。今マハラバの声は届くのか。
今日の殺伐としたニュースに、きっとさまざまな論評が出回るのでしょう。
 まずは、障害者自身が、自らが殺される、否定されるいのちである事を告発していかないとならないのです。
生存とは、自らの叫びなのだと。再度。いつまでも斗っていかなければ。
 収容施設型福祉、施設介護を福祉政策としてこなかったか。安住していなかったのか。施設に入って安心。それは大きな間違い。優しい家族が居るから。それも言い切れない。社会をありがたいものだと、楽観して来なかったのか。
 障害者の事だけを言っているのではないです。健全者と言われる側も同様じゃないですか。
 自分たちの生きる権利とは、自らを晒し、その姿をどうしようもない在り方を観えるようにして、自覚したところから掴み取っていくしかない。
 

2016年7月13日水曜日

クレマチス



 クレマチスと百合を飾ってと、あったので植えてみた苗が、今やっと咲いています。白花のは少し種類が違って4月頃にはたくさん咲いたのに、それ以上のびなくて、このマッチ棒の軸みたいだったものは、気を持たせていながら、遅くなって伸びて、思ったよりもたくさんの花が咲きました。
 東京に居れば新暦のお盆なのですが、今は旧暦で、地域の組のやり方を外さない様にしながら、季節行事が回って行きます。
 茨城の山に咲いていた山百合や、檜扇。今年も無住の庭に咲いているのでしょうか。
 

2016年7月6日水曜日

7月6日になって


 先ほど茨城森林管理署からの電話があり、まさに今日なんだと偶然ではあったけれど感慨深く思ったのです。また、閑居山の一隅を借りることになっています。
 この先がどうなるかも解らないあの山を借り続け、生き死にも解らなくなった兄からの連絡を待ち続ける意味などないかもしれない。何の供養なのだろうかと。
 生きてきた証。(写真は次女の修学旅行のしおり)そんなものに執着してはならないと、父が考えていたとして、全然父の持っていた知識にも、思想の地点にも到達できない不肖の文庫番は、ただただその書いたものを、世に問うだけです。
 母の生涯について、足りないなりに俯瞰する本として、出しながら、それは父の資料を纏める里程だとしたのに、遥かに父の思想は高みにあったようで、数人から、和尚の本は大変だと言われています。沖縄にも父は行った事があると、それも西表に行ったのだと母が教えてくれたことがあったけれど、それを辿るにはどうするか。それは何を目的としていたのか。歳月は過ぎていきます。