彼女も保育士さんだったとか。色々な事情の人たちが身を寄せていた山寺の庫裏。今でも時々電話をかけてきてくれます。もう、その頃の人たちもそれぞれに老いに向かっていて、ポツンポツンと様子がわかると、ほっとする中継点なのかなと思ったりしながら、何ともつかない話をしています。何か書いているのだったら読みたいと伝えると、今いるところの様子を書いたのがあるのと2冊ものノートを送ってきてくれました。
みな、頑張って生きているんだなぁと思います。
そう、中継点なんて言いすぎてますね。同じ釜の飯という意味を考えます。
共食って、ただ一緒にテーブルに着くようなことじゃなく、その共同体での賄いもわかっていて、お互いにお腹を満たせるというこころ配りのできる間柄になるという事。そういう体験の共有。食べるというのは実に、個人的、自分の世界であるのに、共に居る人と一緒に食べてこそ、伝わる事がある。そういう言葉でしょう。
そういう身を寄せ合える場を、増やせないかと毎晩思うのです。
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