2018年7月16日月曜日

問いは深く


 玄関の郵便受けに、短歌に誘ってくださったご近所の先生が、昨夕封書を一通、ちょっと文通しています。なぜならば、うちから郵便局に行くにも先生の家から隣の郵便局に行くにも逆方向で無駄足になる近さなので、郵便受けを使うお便り交換。
 それは、一人暮らしを選んだ先生が先月の歌会に行く車の中で、仏教とキリスト教の違いをご質問されたからなのです。うちの墓所に曹洞宗のお墓と、母のベルナディッタ・マルガリータの墓と並んであることも、私の母がカトリックのままだった事も知っての質問でした。この通りの家々にも、戸別訪問の宗教勧誘は時折パンフレットを携え連れ立った数人がくるのです。人生の終盤に、様々な思いを抱えておられる先生からの問いは、「宗教が心の救いになるか」というものでしょうかと、そして私は寺というには寺らしくもないところで育ち、答えになるとも思われないけれども、心の救いを求める事とは別な次元で組織的にお金を集める宗教があることを、お伝えしたのです。その返信も郵便受けで。
 先生には歌の中で心を満たされるものがあると思うのです。先生の藤房を詠んだ歌は、「蝶を蜂をあまたいざなふ藤の房われもとうろり蝶のごと寄る」と発表されました。
 うちの庭の藤は撮り損ねたので、今年はじめて咲いたノウゼンカズラ。これも多くの虫が寄ります。この苗は斜向かいのおじいちゃんがくれたもの、3年目でやっと花房を付け風に揺れています。どこか、私には天上の花にも思えるものなのです。
 花も虫もまた我と同じ、自他一如の中に仏教(天台宗)もカトリックも選ばなかった私は生きています。
 生きている、この木の実をまたほじくって、一つのいのちを養って、川にポトリと落ちれば流れ往ってどこかの岸に生い茂った木になったかもしれない、そういういのちが、私の中に有難く来るのです。7月の鎮魂。兄に何か便りもしようかと。

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