こんなことが、巡って来るとは、閑居山を下り、取手に移る時には思いもよらなかった故郷での読書講演会。
茨城青い芝の里内さんから花束を渡され、かすみがうら読書会連合会の花篭を抱え、会場を出て懇親の場が用意されていた四万騎農園に向かう車の中で,、皆さん喜んでいたと開催を企画した硲さんは言ってくださいました。
語りたい事の多さと、集まる方々のそれぞれに、何を主題として話してよいのか、故郷での講演などとはくすぐったいものです。会場の前にも後ろにも同級生が、そして作品中にも出てくる恩師はじめ様々な人の顔が見えて、プロフィール紹介をしてくれたのは兄の同級生の図書館長さんです。
まったく、前夜まで用意していた粗筋など頭から消えて、半世紀以上前の雨の明け方に父がゴム長を履いて迎えに行った産婆(助産師)さんがどこそこに住んでいてなどという村内でしか解らないような話をしてしまいました。結局「無縁の地平に-大仏(おさらぎ)照子(あきこ)の生涯-」を語る中身は、村の暮らし、町の暮らし、そして山寺の在り方。開拓者の生活も、戦災孤児の孤児院での寮母としての勤めも、障害者運動も、冤罪被害者支援運動もしていたにしても、その生涯は、その時、その時を生きていたと言う事。多くの人に助けられて在ったということ。村の人たちにとって、閑居山が、自立した障害者の集まる、住民票を移して脳性麻痺者の独立した生活の場となった事は、地域の中に障害者を受け入れたことを、もっと誇りに思ってもらいたいと、私からの村へのお願いになりました。茨城県の教育委員会で昨年、何某が「生まれる前・・・・」云々を言ったのは残念極まりない。このかすみがうら市、千代田であったら、そのような発言は有り得ないはずだと。
母の葬儀の時に、村の人たちは、マハラバ村の人たちを「障害者」ではなく、一人ひとりの名前とその障害として、個人の人格として語ったことを私は実証しました。村内の事として、その在り方も逆説的には「一人前」としての確認なのでした。
今、話せることは、歴史と地利の上の必然から興った障害者運動の地であった事。そして大仏の家。読書会で補ってくれた方々は、私の祖父の代からのお付き合いなのでした。
あの頃は、農村にも人の仕事を身体的にとらえることができるゆとりがあった中での共感と遠慮。都会との対比。地方都市に町としての風格が在った頃。そういう感覚を会場では結びついて考え、今こそ、施設に管理されたものではない、障害者福祉を、そして牢獄に囚われたままのものへの支援を言えると言う事。
60名を超えての参加は、企画者の想定をはるかに超えたのでした。重い内容であったにも関わらず皆さん満足してお帰りでしたよ。と言われて、多少風邪を言い訳にしようと思っていた文庫番はほっとしたのです。母父の友人であった硲さんの恋瀬山荘には、閑居山にあった水仙がもう咲いていました。
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