シルクの里に越してきたのだけれど、ここでも、もう養蚕はされていない。
これは繭玉もかたどった蚕影山神社の碑が豊富郷土資料館に移転されたもの。この8月末に遷座式が行われたのだというので見に行って来ました。
豊富郷土資料館の中は、養蚕と絹の歴史、そして郷土の歴史がぎっしり。隠れた文化遺産。
蚕影さんがもとはつくばにあった蚕影神社の分祀だったことも、とても親近感が増したのです。
金色姫の伝説もどこかで伝わっているのでしょう。
でも、もう養蚕をする人は豊富にはいなくなってしまいました。私たちが薪伐りをしていた山宮の方だったのでした。
昨夏までの二年間、下の畑には毎日のように来ていたのに入館するのは初めての郷土資料館では、技術継承としてのお蚕を育てています。郷土資料館、各地で見る機会があり、どこでもとても学びの多いものでした。実物保存というものが、身体的な記憶、記録なのでしょう。文献だけの記録を読み辿るのとは違って、身体的な同一性をそこにある民俗資料に感じます。そう思うのは、いわゆる旧世代になっていたのですね。まもなく資料館入り文庫番!?。
しかし、農村とは、衣食住の基地です。
そうだったのです。誰ですかEコープの食糧基地構想などを思い出すのは。
食とエネルギーの安全保障については、長く、文庫番も課題としていたのですが、「お百姓」という在り方に、暮らしの技があった事を、今更ながらに思うのでした。
TPPが潰そうとするもの。そうなのでしょうか、自分たちから手放して行ったのでしょうか。豊富はお蚕から果樹となり、そのために、農薬使用をして養蚕が難しくなったと言われます。明治の開国を支えた生糸産業は、その後の化学繊維に追いやられ、家の中の仕事は、見えなくなり。
文庫の通りは、30年ほど前までは、年に9期もあった蚕の時期には、仕出し、小料理、豆腐、製麺などのお店が成り立っていたところ。今は跡継ぎも居ないしもたやになって。
各地で、民俗資料になっているもの。それは、私たちの身体的な記憶であると同時に、精神と、経済を語っているのです。
展示を見ていると、年配の女性たちが、これもやった、糸も掛けた。お蚕も飼った。懐かしいねとお話しながら時間を過ごしていました。まだ、いらっしゃる、実際にいじる事が出来る人が、それなのに途絶えてしまうのでしょう。農とは、食だけで見るのではないということに行きついた山仕事讃歌。そこから引き出せるものは、絹糸のように長くしなやかに綴る事ができるでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿