副題は、抗日愛国自由詩選。緑川英子という大月出身の女性の詩も入っています。これらの詩を書いた人たちの思いをどう母が受け止めていたのかは聞き洩らしてしまいました。ですけれど、母の事だから、それこそ眠れない夜には、綴られている痛みへの共感をもって頁を捲った一冊だったのではないかと思います。抗う人々への共感は、国を超えて時代を超えてあるのです。単に痛みを思いやるだけではならなかったのです。母の年代の人々が、体験した戦争。その行った先、侵略した先の民衆の叫び。やはり一人の人間として、どうお詫びすべきであるかと、考えていたのだと思います。詫びるとは卑屈になることじゃないし、誇りを失うことではない。新しい理解と出発はそこからはじまるのです。幾世代でもその出発を体験できるはずです。
むしろきちんと謝罪できない人格は、相手に受け入れられないものです。
どうも、この半世紀ほど、その謝ることと、赦すということがくらしの中でも素養として教えられなくなっていたのだと思います。嘘はつかない。弱いものはいじめない。泣かない。それだけの教えで躾けられた世紀は遠くなっていきます。それなのに、機械を駆使して、世界とつながる国際化は、様々な切り口で、高等教育の府に置かれ、幼児からの英語教育が計画されていきます。おかしな愛国心が道徳で教えられようとしています。人が人を大切に出来るということ、それが第一になければならないのにです。
意味ないなぁ。教育って、管理されるものではないのです。赦し赦されのたしなみじゃないのかと考えます。赦しとは厳しいものです。自分に対しての痛みがかならずあるのです。そうでなければ踏みつけられたものの痛みは分からないままになってしまいます。
それを、一生ではなく世代を超えても、他者を排除しないで、互いの痛みを思いやり、赦しの厳しさを理解していく。教育は人の根幹です。そうであるのに、国家のためのものになってしまっています。
どれほどの、文物を交換し、歴史はあるのか。人類はともに歩んで行く道を見いださなければならない、後戻りはできないのだからとくらしの場で思うのです。
さあ、法螺貝を取り出して、私も自由詩をまた書かなくっちゃ。
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