2015年2月17日火曜日

いのちの尊厳



 もっと、食べるという事、いのちに謙虚でありたいと願うのです。今日は雪降りだから、思い出して胡桃餅を作ってみました。藪川で買った胡桃を擂って味付けして、焼いたお餅に絡めて食べる。そんな三時を連れ合いと二人。
 一粒の木の実も、また命であり。
 冷蔵庫に入っているのは、昨日持ち帰って来て、処理した鹿肉。チャーシュウになるでしょうか。豚肉と同じレシピで作ってみます。鹿肉カツもやってみます。
 寺に生まれたものが!!と言いながら、水洗いし部位別に切り分け。そうは言ってもいただき物。連れ合いはまだまだ数撃ちゃ・・の数にもなっていないので、同行の先輩方からの分け前なのですが、毛付き蹄付きであると、いかにもワイルド。スプラッターの現場が台所にも出現します。
 一番苦手な場面なのに、どこかで落ち着いて、きちんと手早く処理しないと、調理に向かない。どう食べきるかを考えて黙々と20㌔近くを捌いていかないとなりません。あなたも男の料理教室に行っていて良かったわね。人任せじゃないので助かるわ。。
 仕留めてすぐに認可されている人が第一次の処理をしてくれたのですが、薄皮や筋を外しながら、朝まで生きていた命が、形を変えてここにあるという重さを考えます。どれほど、人に優しくと言い、生き物を大切にと言っても、いざ殺生が日常にあるという事。味噌を造る大豆を育てるという事からどう転変していくのか。生のいのちに触れ、いただいて生かされるしかない事を思います。そしてどうすれば、誰も餓えない社会が来るのかもこの凄惨にも思える台所でいつも考えるのです。
生半可なええ恰好している、食の楽しみとか安全などから解決が導かれるのでしょうか。野生獣を食することのリスクもいろいろ頭をよぎります。それでも、生死一如。自他一如。


0 件のコメント: