2014年2月25日火曜日
孤立を考える
今回の大雪で、何が嫌だったかというと、孤立した、孤立したと言い立てる報道でした。それは、もちろん、雪の中で難儀している人たちが大変なのも、比較的平地に居る文庫番にも雪掻き10日めの今日も、まだうんざりする残雪にさぞや辛い事だろうと少し解ります。
限界集落という考え方も、なぜ?と思っていたのですが、孤立した集落。決めつけないで。そういう言い方されちゃっていいのかしら。と。
毎朝、冷え込むこのところの明け方の冷気の中で、首筋をすくめて毛布に潜り込みながら、つい先月見てきた兄の暮らしを考えます。ある意味自分勝手に、気儘に生きてきて、行き詰って一番恥と思っていただろう妹に連絡してきて、行けば居ない。義母を車に待たせて上がっていった朽ちた小屋。そこにいくばくかを置き捨ててくるしかなかった私たち。その後の連絡もなにもないそのままにこの大雪になりました。生きているのか。。。文庫番の義母が逝ったことなども知らず。もしかしたら、・・・。。
それでも、自分でその生き方を変える事のできない、自尊。ああ、考えても仕方ない。寄り添う、支援、それも上滑りなことばに思えてしまう。受け取られないこちらの思い。そんな事情は伝わらないと解っていても、仕方ない。毛布に首を埋めて明け方の中に過ぎていくのです。
孤立、それは状況。普段は何かしらの繋がりがあって、生活を共有しているものが、いきなり途絶える事。だからまた線を結んで、生活線。ライフライン。
でも、割り切れない気持ちです。自立もできていない孤高の生き方。それを日常としている今の閑居山。そこは孤立集落でもない、やはりユートピアなのかと思うのです。
でも、生きているのだろうか。その思いを今逆に県外の人たちから受け取っています。嬉しいし有難いのが素直なところです。・・・・やはり解らない。文庫番には兄が居るそれだけなのです。
どこかで、その生き方を認めているから、孤立をことさら言い立てて、繋ぐのって、有事を想定している。皆が集団でいなければならない事の裏返しの言葉と聞こえるのでしょう。
そうではない、一人ひとりのくらしを、浮かび上がらせられる。個人、もしくは個であることを認められる記録が、ことばが欲しくなります。まだまだ力不足。
いつもの川の向かい岸のハウスも潰れています。この大きな打撃が及んでいる範囲、そして取り返す年月、これからをつくっていく時間。午後の陽、雪を除いたクロッカスが咲いて。
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