2012年8月21日火曜日

タイムロス

 そう言ったら、身体も動かさずにパソコンの前に居ることが一番の時間潰しになるのかもしれませんが、丸二日、インターネットの接続ができなかった苛立ちと、不定休である文庫稼業は、進まないし、何よりセキュリティソフト会社の方の不具合であったので、その究明と復旧に利用者側に不都合が出るなんて、初めての事態でした。
 さしたる仕事はなかったのじゃないの?と言われても、多少の進めているものを抱えながらですから、いつも以上に、ツンケンしていたかもしれません。
 夏草退治の庭通いは、本日は文庫番は行きません。この夏は一泊を繰り返してと両親を連れて連れ合いは行きます。長女も途中乗車です。さあ、のんびりしながら、ロスの部分を片付けていきましょう。一年ぶりの義父母の留守。できること、やりたかったことが幾つかは片付けばいいのですが、何よりも気持ちを寛がせておきましょう。

 

 さて、自分の狭小な気持ちの在り方も、困ったものですけれど、社会と宗教との関わりなどを考えていました。一つには、人によっては、自分の経験・思考の範囲以上を、日常的には考えることができないのだとわかったのです。
 そういう中での宗教者という存在はあるのですけれど、現代社会での「宗教」って、世俗に近い厭らしさが感じられます。大仏の父母は、ともに信仰で結ばれていたのは確かです。ともに実践的宗教者であったと言えます。日々を仏壇に向かうというのではないし、経を唱えれば救われるというのでもない、他者との関わりの中にあらわれてくるもの、もしかしたら運動にも近い中に、それを超えた精神性を揺るがさない二人であり、共通しているものでした。
 それでいながら、互いに持っているそれぞれの信仰を尊重していたのです。マハラバを名乗る私には、格別の宗旨があるわけではないのです。ただ、あるがままでいるのです。
 表面上の形を言っても、その本質が見えないことが、現代社会の宗教を空回りさせてしまうものなのでしょう。空回りするだけでなく宗教と経済と政治を、結びつけていくことは、どこの社会のいつの歴史でもありましたし、これからも、ことばを変えてもあるでしょう。
 

 そして、宗教を隠れ蓑にしてしまった、無法についても、またそうではないと言わないとならなくなりました。そこを逃げにしてはならないのですが、それにしか、よすがが無いとしたら、その隠れ蓑であるのも、また宗教の一面なのかと、卑近なところで考える文庫番です。
 そこまでを、体系としてもあらわしていかないと、市場経済にも、政治の愚にもいたぶられている、3.11以降の光をともせないのだと思うのです。あの山の寺でランプを灯していた父母の資料を整理していかないと。

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