2020年4月1日水曜日
新年度
4月1日が来ました。なんだか新年度を文庫稼業も迎えていて、もう少し身を入れて、マハラバのマハラバたることを考えなければと思っています。
3月に倉庫作業をした中に、書籍に挟み込んであった当時の資料が幾つか出てきたのですが、すでに青い芝の会のホームページや、小山氏の著作でも出ている、青い芝の会のチャリティショーの資料がありました。初代会長山北厚さんの名前での趣意書と、応えてくれた出演者・・。。
そうだったのかコロンビアレコードの関係だったのかと、その時幼いままに、観ていた私は記憶との合致を思います。
これら出演者を観て、まだ存命だった祖父母にも喜んでもらえる花柳社中の踊りの真似事などをしていたことも思い出します。そして山の中に、当時の人たちの歌声が溢れていたことを。ほとんど一緒に家族も、共同体も、そして青い芝の人たちも動いていた中に幼い私は、尻尾のようにくっついていたという、記憶だけだったものが、辿れたことによって朧げなものが少しクリアになる資料なのです。今回の書籍調査については、父の宗教思想についての確認作業が主眼であり、また蔵書の目録作成ができればというものですが、障害者運動との関わりも見ることができました。
このチャリティ・ショーの会場について文庫番が母に訊いたのと、他の人が記しているのが同一されていないので、今年はじっくりと調べてみようか。など新年度らしく抱負。
幼いながらに、出演者がチャリティに応じてくれていたという事を聞いていて、意味は大人になった今でも、本当に理解できているのか文庫番の未習熟を思います。この世代の人たちが、差別を取り払っていく同列の仲間であったのだと改めて思いたいのです。
山北会長の文章を読むほどに、津久井やまゆり園の事件に対しての、過去からの叫びのようにも読めます。
自分の中での幼いフールとなってはいなかったという安堵を得たものでしたので、4月1日にアップしておきます。
あとは過去に委ねるのではなく、自分の仕事としていくこと。
追加(趣意書)
脳性小児まひ者支援チャリティ、ショーについて
脳性小児マヒ者福祉協会
青い芝の会
会長 山 北 厚
いかに意欲に充ちて居ても身体障害者の自立厚生は容易でありません。なかでも運動の中枢を冒され手足の動作、言語すべてに自由を欠く脳性小児マヒ者の場合は、殊に至難であります。その上 脳性の名と言語障害から、知能的にも劣って居るかの様な誤認が伴いがちなのです。
故、白土展子さんも、この脳性小児マヒ者の一人でした。が、この度 遺作となった詩が関係各位の御好意によって歌謡界にデビューする運びになりました。私たちは同障害の友として運命の兄弟として、若くして自からの命を絶たなければならなかった故人の心がとても他人ごととは思えずこれだけの才能があったことを世に問うて、あわせて私達マヒ者と云えども優秀な能力のあることを示して、広く脳性小児マヒに対する誤認を改める資とし、あわせて脳性小児マヒ者の厚生基金獲得の一助とする為に、作品発表後援会を催すことになりました。
なにとぞ右の真意ご明察の上、力強きご支援を賜りますよう御願い申し上げます
昭和三十七年五月三十日
2020年3月28日土曜日
南風に
蕎麦畑のはじめての裏作の麦。麦踏をして寝かせた茎の間に土入れをすると、分結を促すと教えられ、またまた私たちは人力でそういう作業をします。
広大な畑だったら何らかの機械力が工夫されている作業だとは思いますが、自分たちの足腰と腕の力。もう少し早い時期に同じ作業をした新潟でもらった麦はもう緑の茎が立っています。南風も吹き荒れるような天候でしたから、目に埃が入らないように風に背を向けて、一歩づつ進めます。
なんとなく、マッサンの麦の唄が浮かんできます。見知らぬ土地に来て事業をなしていく。。そんな大それたことはしません。
これは鶏の餌用の麦が実るはず。
そして今朝のNHKは、スカーレットの最終回。自分がどのように次女を看取ったか、家族のそれぞれの思いはなど振り返る一週間でもあったのですが、月・火は薪の作業と畑、水・木が甲州小梅の剪定枝を軽トラックに乗せて運び、畑で焼きました。金曜日は麦踏をして、強風になって戻ったのでした。今日は、すこし曇りがち、暖かい気候。人の生死の重さを考える一週間でもありました。無一物で生まれ、無一物で死んでいく条理の中に、人それぞれの不条理がどれほどあるのでしょう。今を生きているというかけがえのないこと。
意図していなかったはずの父の遺した書籍。先日確認したのはやはり全量ではなく、記憶の中でいくつかの棚のものが、箱に入っていなかったのです。それは仕方のないこと。時間がある時に自分の記憶の書名を辿って、検索しています。限界もあることです。
2020年3月13日金曜日
薄緑の柔らかさに
蕗の薹に、地球の鼓動を感じたのは2007年のきなり歳時記だったと思います。それは3月10日を悼む詩でした。それは山川草木国土悉皆成仏を柔らかく言いたい拙さでした。
今年は、3月10日も3月11日も重く一言では表せられない辛さを感じていました。多くの人たちに、僅かでも信じるという、草木の芽吹き大地の甦りを伝えたいのに、忘れないだけではない忘れることができない様々が沸き起こってしまうのでした。
人間のつくりだした放射能で冒された、この地上に、草木は芽吹いてくるのです。花も咲くのです。それなのに私たちは復興などという驕ったことばしか持ち合わせていない。そう、父の蔵書の中に「人間の復興」もあったのですけれど、それは何を読み取ろうとしていたのでしょう。在ったという事実しか文庫番には記せない。
放射能というものも、戦争というものも、人間が生み出した忌まわしいものであるとしたら、今年の新型ウィルスという、力の及ばないものは同じ様に忌避すべきものなのでしょうか。
私たちが繰り返してはならないことを、抱えながら、なお自然をいたぶっている事への警告ではないのでしょうか。
まだ、大地の恵みを信じたい。自然というものの懐の奥行きに安心したいと思います。
2020年3月6日金曜日
2020年2月5日水曜日
ありがとう
世の中の不思議というべきなのか、山形の准ちゃんから来た連絡は、2月1日に金子和弘さんが喉に食べ物が詰まって亡くなったという知らせがあったというものでした。
ご自宅にも、入院した時にも会いに行っていたので、体力の変化を嘆きながらも、あれもしたい、こうしなきゃという話を聞いていたのでした。
最近まで、兄との関係の間に入ってくれていたこともありがたかったです。
ちょうど、次女の友人からお供えの花が贈られてきていた我が家。祥月命日が、金子さんも亡くなった日となりました。思いを深くします。
考えると二人とも、人を愛することを大切にしていた人たちです。自分を諦めない。そういう人たちが居る、居たということ。皆に知ってもらいたいと思い、金子さんの娘さんが書かれたご挨拶をアップしておきます。
マハラバから生まれ出でた人たち皆のことばなのかもしれない。母の写真の前に開き置きました。「だれもが皆同じように暮らせる社会」をめざして運動を続ける人たちは続いていくのです。
斎場で金子さんのご親族から大変お世話になりました。と言われて文庫番は大慌て、いつも自分が励ましてもらっていたことを思うのです。現在進めている新解放理論研究会も承諾してくれていて、横塚さんたちとのことももっと同じ脳性麻痺者として運動の方向性を語らったということを聞いておけばよかった。盛花には全国青い芝の会からのものもありました。良かった。
彼らは人柄自体が、前向きで明るさをもって人生を生きてきていたのです。そうでなければ続いてこないことです。そして何より、この感謝の挨拶が、どこにも挫けるようなことばがないのです。また文庫番は励まされました。
最近まで、兄との関係の間に入ってくれていたこともありがたかったです。
ちょうど、次女の友人からお供えの花が贈られてきていた我が家。祥月命日が、金子さんも亡くなった日となりました。思いを深くします。
考えると二人とも、人を愛することを大切にしていた人たちです。自分を諦めない。そういう人たちが居る、居たということ。皆に知ってもらいたいと思い、金子さんの娘さんが書かれたご挨拶をアップしておきます。
マハラバから生まれ出でた人たち皆のことばなのかもしれない。母の写真の前に開き置きました。「だれもが皆同じように暮らせる社会」をめざして運動を続ける人たちは続いていくのです。
斎場で金子さんのご親族から大変お世話になりました。と言われて文庫番は大慌て、いつも自分が励ましてもらっていたことを思うのです。現在進めている新解放理論研究会も承諾してくれていて、横塚さんたちとのことももっと同じ脳性麻痺者として運動の方向性を語らったということを聞いておけばよかった。盛花には全国青い芝の会からのものもありました。良かった。
彼らは人柄自体が、前向きで明るさをもって人生を生きてきていたのです。そうでなければ続いてこないことです。そして何より、この感謝の挨拶が、どこにも挫けるようなことばがないのです。また文庫番は励まされました。
2020年1月15日水曜日
マハラバの傍らで
石蕗に綿毛ができています。マハラバ村の傍らにあった石蕗は、いつのころから願成寺の庫裏に植えられていたのでしょう。武家好みの植物は江戸時代からの末裔なのでしょうか。何を見てきたのでしょう。母が神立のアパートの庭にも移して、母が一回も花が咲く事を見なかったという、それが今山梨の文庫の庭で綿毛を飛ばし次の世代へと伝えようとしているのだなんて、一旦は何かウィルスにでもやられている株だから、燃やしてしまえと考えられていたのだというのに。
1月になって、やまゆり園事件の裁判員裁判が始まりました。様々な情報が流れてくる中で、私の中で言葉になっていない気持ち。
自分だけの感情でもあるから、書くことも揺れ動くのだと思うけれど、石蕗のように新しい役割を果たさなければならないのです。
多くの人が、やまゆり園の容疑者を、有り得る。とか自分がやっていたかもしれないというのを目にし、耳にする虚恐ろしさ。その多くの人の言っている言葉が上滑りにしか聞こえないのです。
マハラバ村であった事件は健全者(健常者とは書きません)であり、その場を脳性麻痺者の共同体に解放していた、文庫の父が、脳性麻痺者を器物で殴打したという事件です。それまでは脳性麻痺者の解放運動を拡げるともてはやしていたメディアは、何の擁護もしなかったわけです。所詮メディアの語ることはその時々の世相の求めるものなものだと承知して生きてきています。事件については当事者たちそれぞれ語らずして亡くなっているので、傍らにいたからと言って自分が審らかにする事ではないと考えるのです。
父が服役していた間はあっという間に過ぎていき、それでもなお解放の場を求めて来てくれていた人たち。訪ねてくることをやめなかった人たち。その人たちも今は記憶が朧な年代になり、新しい事件とは別個に観ているのだと思います。
共同体であればこそ、仲間であればこそ、力づくの場面があり、互いの主張もぶつかり合う、そういう場を社会にもっとつくっていこう。と山を下りた人たち。
しかしながら、社会は開けていくのには時間がかかるのです。世間の風は冷たいのです。この50年間、教育の場でも、くらしの場でも、就労の場でも。最重度の障害者を、置き去りにする事を仕組みとして、施設収容を事業として増やしてはいなかったのか。人間のもつ自分自身の愚かしさ、醜さを見たくないと、その象徴として障害者を「普通」から隔ててきてはいなかったのか。そういう感情が、やまゆり園事件でまた湧いてきたわけです。突き詰めれば、自分自身の中にあるものをどう認められるのか、その葛藤は「普通」の社会に投げ返されていたのに、今は肢体、言語の障害のみならず、引き籠り、社会参加に対しての個々人のバリヤーも、さまざまな病名で障害とされている時代になってしまいました。
人は裏切る、組織は裏切る、国家が裏切る、それは人は自分自身を裏切って生き延びようとするからだと、承知した上でなお問わなければならないのです。
母が閑居山に北海道から嫁いできて、鍬をもって耕して、100本の大根を収穫したのよ。と言ったところは、マハラバ村のプレハブが建てられて、そして今はまた藪に戻っています。文庫はようやく、塩と糠で美味しそうな沢庵を漬けることができる冬となりました。60余年。
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