2020年1月15日水曜日

マハラバの傍らで



 石蕗に綿毛ができています。マハラバ村の傍らにあった石蕗は、いつのころから願成寺の庫裏に植えられていたのでしょう。武家好みの植物は江戸時代からの末裔なのでしょうか。何を見てきたのでしょう。母が神立のアパートの庭にも移して、母が一回も花が咲く事を見なかったという、それが今山梨の文庫の庭で綿毛を飛ばし次の世代へと伝えようとしているのだなんて、一旦は何かウィルスにでもやられている株だから、燃やしてしまえと考えられていたのだというのに。
 1月になって、やまゆり園事件の裁判員裁判が始まりました。様々な情報が流れてくる中で、私の中で言葉になっていない気持ち。
 自分だけの感情でもあるから、書くことも揺れ動くのだと思うけれど、石蕗のように新しい役割を果たさなければならないのです。
 多くの人が、やまゆり園の容疑者を、有り得る。とか自分がやっていたかもしれないというのを目にし、耳にする虚恐ろしさ。その多くの人の言っている言葉が上滑りにしか聞こえないのです。
 マハラバ村であった事件は健全者(健常者とは書きません)であり、その場を脳性麻痺者の共同体に解放していた、文庫の父が、脳性麻痺者を器物で殴打したという事件です。それまでは脳性麻痺者の解放運動を拡げるともてはやしていたメディアは、何の擁護もしなかったわけです。所詮メディアの語ることはその時々の世相の求めるものなものだと承知して生きてきています。事件については当事者たちそれぞれ語らずして亡くなっているので、傍らにいたからと言って自分が審らかにする事ではないと考えるのです。
 父が服役していた間はあっという間に過ぎていき、それでもなお解放の場を求めて来てくれていた人たち。訪ねてくることをやめなかった人たち。その人たちも今は記憶が朧な年代になり、新しい事件とは別個に観ているのだと思います。
 共同体であればこそ、仲間であればこそ、力づくの場面があり、互いの主張もぶつかり合う、そういう場を社会にもっとつくっていこう。と山を下りた人たち。
 しかしながら、社会は開けていくのには時間がかかるのです。世間の風は冷たいのです。この50年間、教育の場でも、くらしの場でも、就労の場でも。最重度の障害者を、置き去りにする事を仕組みとして、施設収容を事業として増やしてはいなかったのか。人間のもつ自分自身の愚かしさ、醜さを見たくないと、その象徴として障害者を「普通」から隔ててきてはいなかったのか。そういう感情が、やまゆり園事件でまた湧いてきたわけです。突き詰めれば、自分自身の中にあるものをどう認められるのか、その葛藤は「普通」の社会に投げ返されていたのに、今は肢体、言語の障害のみならず、引き籠り、社会参加に対しての個々人のバリヤーも、さまざまな病名で障害とされている時代になってしまいました。
 人は裏切る、組織は裏切る、国家が裏切る、それは人は自分自身を裏切って生き延びようとするからだと、承知した上でなお問わなければならないのです。
 母が閑居山に北海道から嫁いできて、鍬をもって耕して、100本の大根を収穫したのよ。と言ったところは、マハラバ村のプレハブが建てられて、そして今はまた藪に戻っています。文庫はようやく、塩と糠で美味しそうな沢庵を漬けることができる冬となりました。60余年。

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