2016年7月13日水曜日
2016年7月6日水曜日
7月6日になって
先ほど茨城森林管理署からの電話があり、まさに今日なんだと偶然ではあったけれど感慨深く思ったのです。また、閑居山の一隅を借りることになっています。
この先がどうなるかも解らないあの山を借り続け、生き死にも解らなくなった兄からの連絡を待ち続ける意味などないかもしれない。何の供養なのだろうかと。
生きてきた証。(写真は次女の修学旅行のしおり)そんなものに執着してはならないと、父が考えていたとして、全然父の持っていた知識にも、思想の地点にも到達できない不肖の文庫番は、ただただその書いたものを、世に問うだけです。
母の生涯について、足りないなりに俯瞰する本として、出しながら、それは父の資料を纏める里程だとしたのに、遥かに父の思想は高みにあったようで、数人から、和尚の本は大変だと言われています。沖縄にも父は行った事があると、それも西表に行ったのだと母が教えてくれたことがあったけれど、それを辿るにはどうするか。それは何を目的としていたのか。歳月は過ぎていきます。
2016年6月19日日曜日
素通りで
土浦での同窓会に二泊で出向いたのに、このエレベーターの話を知人とするのにも寄らず、時間をもてあまし、町を歩いても、学園都市からの足も中途半端な駅前は、市役所が場所を使い、商業の賑わいは、みな東京へと流れているのを感じるのです。地方市街の21世紀の様に、この国の現実を考えたのです。それは五月の半ば過ぎ。
遅れての文庫番日誌。五月晴れの故郷行。早苗田の夕暮れ、実っていく麦の穂。山道へと入って行く先は、それは一つ向こうの山でした。秋の読書会の顔合わせもでき一安心。懐かしい両親の友人御夫妻はお元気でした。石岡の駅前での待ち合わせにもびっくり。昔日とはこの事なのかと周りを見回したのです。
同窓会もそれぞれの近況に相槌をうつ、皆熟女。
翌日に、旧友の墓参があるのでもう一泊。空いた時間に隣駅の神立にも行く事ができたはず、もう少し時間を使えば・・兄の現在も解ったはず。いや解らないはず。
昨年末に、送った里芋やらの小包は、石岡局からの問い合わせを重ねて、山梨に戻ってきていました。五月には、次の準備に芽を出しています。昨年の秋冬、今年の春。どうしようもない、自分の身動きに、兄の消息が解らない。閑居山に行ったけれど、誰も居ないみたいと、数人から聞かされたのでした。だからと言って、私には病む子を置いては行かないとしたのに、五月になっても、やはり志筑を素通りしての故郷行としました。
2016年5月9日月曜日
2016年4月29日金曜日
母子草断章
近頃、選択的雑草の配置をしている文庫番の庭。
マハラバ文庫にあった装い箱の表紙写真が2009年の間は母子草にしてありました。
それは、母が胸部大動脈瘤乖離の発作があったにもかかわらず、一人暮らしを続けていた頃に、母の元に通った時の路傍の花。
ハハコグサ。御形。ホウコグサ。
昨年の今日だったでしょうか。車で都内に出た戻り、中央高速を連れ合いが運転する中で受けた携帯電話は、私ったら、悪性リンパ腫だっったんだって、ステージ4だけれど、お医者さんは悲観することはないって・・・・。。。何それ、、悪性リンパ腫って。。そういう声に連れ合いがハンドルを強く握りなおしたのに、後でゆっくり聞くからねと。その後の不安。インターネットで情報を調べまくっても、続けて母、義父、義母を亡くした私達には、ステージ4である事の重さがのしかかっていました。義母は大腸癌でステージ4だった。それをすべて、子供達も共有してきた家族。
当然、次女も承知していたステージ4。宣告。
私には3人の子供が居ます。居ました。そう今も、居る。一人ここには居ないけれど、永遠の中に居るのです。
下町の家の横にもあったこの草の名前を教えたら、へえそういう名前があるんだと言ったのはどの子だったでしょう。
遥か遠い日に、学習教材に書かれていた母と子の別れ別れの涙のあとから咲いた花だと言うお話もしていた記憶。
2016年4月25日月曜日
バイオガス利用、と 木質ペレットサイロ
九州地方での地震に、まさかこのような災害がまた来るとは、と皆気持ちも落ち着かない日にちでしたが、東京ぱるとも会で続けている被災地応援ツアーは、継続してみていく事も考え南三陸町の東日本大震災からの、立ち上がりを見てきました。
いろいろなところを繋いでいますが、今回はデジカメのメモリーを忘れて内蔵メモリーで残した新しい訪問先。 二つの写真は、別な場所です。
南三陸町の生ごみなどを処理してバイオガスと液肥利用を循環させていく町の委託施設。BIO。
下の写真は、南三陸町病院の木質ペレットタンクです。
下の写真は、南三陸町病院の木質ペレットタンクです。
より、循環型の社会システムを作っていくと言う事、お題目の“復興”ではなく市民参加で行えるものでした。南三陸病院は以前の志津川病院の被災後の新生の姿で、木の温もりの実際がありました。
これらを含めて続けてみてきたところに、具体的な明日を感じる旅となり、あらたに起こる災害にも対処していく参考もたくさんいただけました。
これらを含めて続けてみてきたところに、具体的な明日を感じる旅となり、あらたに起こる災害にも対処していく参考もたくさんいただけました。
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