2020年11月21日土曜日

書き足し パンとあこがれ

  昨日、自分が小学校から帰る頃?それとも長い休みの間か、観ることのできたポーラテレビ小説について書いたことの、足りなかったことのあれこれ。
 文庫番は、春に倉庫で書籍の大部分を再確認して、その目録作成に協力してくださっている島根の先生から、データーを送ってもらったことで、今自分がしているテープ起こしにも内容が関係することなども、麻婆豆腐を食べながら思っていた夜なのです。
 現在起こしているテープは、父の記録としては最晩年の語り、講義テープとなっているもの。ほぼ、同じ内容を二回に渡って連続で語っているのですが、ほぼ同じということから整合性をとりたいと、両方を起こしていく作業です。
 それは、自分が閑居山を下りてからの講義であるので、あらためて、父の思想を体系化するためには、重要と考えているものです。
 そして、その思いとは何だったのか。相馬家の様子を描いたテレビ小説は、父にとって東京府の上馬で敗戦間際まで暮らしていた頃の、祖父母の交流と重なることが多く、特に母親の実家澤山の家は都市知識人などとのかかわりもあり、勤め先だった山陽堂の逸見斧吉が、社会活動の一面もあったことなどを、それとはなく、中村屋の歴史を描くドラマを観ながら、亡命者たちの支援もしていた事にも合わせて語っていたのです。戦前の実業家たちの社会に対しての矜持を学んだのでした。
 その頃テレビがあったのは、マハラバの人たちも観ることのできる八畳の方だったのか居室とした4畳半の方だったのか、明瞭ではないのですが、4畳半にあった、書籍の小型本は春の点検で見られなかったのですが、木下尚江の本などがあったのでした。一番身近に置いてあったのであるとも思い出します。この戦前からの交流は、文庫番にとっての祖父母の居たマハラバの創成期も支えてくれていたのでした。
 そして、あれこれのその他。
 テレビを皆で観ていた、文庫番。確かに家に戻ってであるけれど、そこにいる皆というのは、共同体を一緒に構成していた人たちであるという事。一緒に学び、考え、そこの場をつくっていた人たち。それは、ドラマの中で商家の在り方の中にさらに、亡命者たちとの交流もあり、家族以外の者も一緒にいる在り方と相通ずるものであったのでした。「家」というものが、家族だけで、囲いをつくるものではない社会とも縁のある場だという在り方です。
 それを思い出しながら、瀬戸さんからの毎晩の報告アップにある生活困窮者支援の現在。もちろん、パルシステムも事業の縁側で、支援を続けています。
 孤であっては、自助も共助も公助にも触れることができません。生活支援ということばではなく、ともにある連携としての共助や公助を組み立てていく時代になったのでしょう。公助は、民の力で公を変えていくという事なのでしょう。公からもたせ掛けられるのではなく、良い仕組みをどんどん公の部分に入れていく仕事をされている報告アップなのだろうと、夜遅くあれこれ思い合わせていたのでした。
 旗を振りつづけないと!
 
 

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