いろいろな課題があり学びの米作りだった今年の米も、新米を食べられるようになり、ひとまずは安心。水の管理の難しさ。冬の整地の重要さ。そして、収穫に向けての準備。
今は天日干しの日にちが足りなかったこともあり、各所に配ったお米に、水分調整の不完全を必ず伝えています。それも昨年より送り先を減らしているのです。
映画ではないですが「苦い米」。労働に見合う喜びは、簡単には得られない。これも、日曜洋画劇場で、淀川長治氏の解説で観たのだろう、父と一緒に数度観た記憶があるのです。父はシルヴァーナ・マンガーノのボディラインを地中海スタイルと、言いながらよく表現していた事も懐かしいです。
夏の暑さと、米作りは一段落して相変わらず父の講義テープを起こすのが文庫番のお仕事。誰に頼まれたわけでもなく、何の価値があるのか、なんて思うと、それこそ実入りのないことで、投げ出したくなってしまうのですけど、ああ、自由な人だったのだ。と声を聴き、周りの人たちとの掛け合いのような進め方と、そこに傍証として引いてくる書物の見当をテープを聞きながらしていると、つくづくその場に居合わせたかったと思います。ただのおやじのエロギャグか、破戒僧の与太説教かと言ってしまえばそれでお終い。
そうじゃない、この自由な空間が本来の寺であり、障害者とともに生きるという実践であり、知性の飛翔であり、論の跳躍の力なのだと。
先日も兄が来て、あまりにも自説に偏った話のみをしていったのですが、この父の深い知識をともに検証できていないことが残念でなりません。半年ほど前に、兄が絶縁を告げに来たと思ったのは、野菜など迷惑だから送ってくるな。ということを伝えにわざわざ出向いてきたと考えています。
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