2017年10月26日木曜日

亡国



 亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国
祖父は田中正造の演説を聴いたことがあると、母に聞いたことがあって、晃雄(こうゆう)さんもいろいろな事をしていたというから、そういうこともあったと考えています。でも、それはきっと、今回の衆議院選挙で大勢の群衆が立ち会った演説の群衆の一人と同じような群衆の一人だと思っています。何かで確証があることではないのです。
 ですから、今また、それらの時代について書かれたものを勉強中。
最後には、菅笠と頭陀袋だけを枕辺になくなったという田中正造。およそ江戸末期の天保十二年に下野の国で生まれたものが見てきた開国、維新、そして・・・文明開化と言われた明治の、その底辺の暮らしをいかにできるかと、常に民衆とともに居たという。
この逞しい精神を祖父は肌で知ることができた世代だったのだけれど、今私はどうだろう。そのことを断片でも確かめていくことくらいで、得意げにしてはいないだろうか。そしてその息子であった父が生きていた時代も、すでに遠くなったことに、今、いまをどう生きるのか。
 今回の選挙は結果もどうしようもないけれど、それ以前に立候補するものの志が育っていない社会であって、少しずつ良くなっていると百五十年前の人たちに胸をはって述べられるでしょうか。
 それでも、抗うとはリベラルであるとは、勝ち負けではないと、だから残されている志を確かめていかないと。
・・・・・蜘蛛の巣を透かし見るバス停と、空き家の庭

0 件のコメント: