だれそれの体調が優れないという連絡が重なって、やはり皆、冬の間を堪えていたのだと狼狽え気持ちを落ち着ける先を見失います。すぐにでも駆け付けたい。何か手助けにならないかと。それでも、別に今日明日を争うような話でもないからと相手先に言われてしまう。自分の心の中で余程事を大きくとらえて過剰反応をしているのかもしれない春の芽吹きの時期です。自重しないと。
そう、家の中も庭に出ても、やりたかった事だらけなのに、まとまってはできていない。今まで言い訳にしていたできない事情の数々はほとんど無くなったのだから、全開で当たれば良いとは思いながら、少しずつです。
抱え込んでいこうと思う事も却って増えたのです。半分は解らない結論だけれど、閑居山の事もマハラバ村の事も、切り離すのではなく居る事が文庫番も落ち着くのです。
父の洗礼日・堅信日そしてその時の代父さま、司祭さまの事が解ったという知らせもありました。決して仏教だけを学んだのではない思想をどう咀嚼できるか。あらためて思います。
社会の中で、悪と言うものが、本質的に悟りの中に居る。それを見出した資料の整理をしていくのが、自分を悪役に追い込んでいく論理に在る弄弁を、和らげる手立てになると考えるのです。
それこそ、まだまだ心根の弱い文庫番には、社会とは何なのか、自分とは何なのか、悪とは、善とはを問い続けながらになるのです。ただ、この思想の系譜は公開性を持つものだという事からなのです。
これもある意味、自身のこだわりにすぎないし、事業になどは成り立たない。それなのに諸事に気持ちが揺れていき、だからと言って大した役には立たず、何かの手助けなんて偽善じゃないかともすぐ思い。だから、人助けなんて、突き詰めれば自分の気持ちが落ち着くためなのではとそこに戻ってしまいます。
やはり、都内に居た頃に比べて移動に物理的にも金銭的にも難しい面はあります。やたら動くのではない在り方。それができるとこころの中もざわめかないはずです。
それでも、本日は今居る地域での呼びかけ、山の神神社千本桜のコースのトレッキング。祭神のコノハナサクヤヒメは、閑居山の上にある山の祭神でもあります。
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