2013年1月21日月曜日

ある回天乗りの死

 2013年1月18日午後5時。妻と長男家族と二男が見守る中に脈拍を表示していたモニターは0となり、波線は直線を描いていました。医師の確認は午後5時13分の死亡となります。
直接には肺炎となる義父の死因ですが、昨年12月10日の大動脈瘤の手術から、誤嚥性窒息、心肺停止はすでに年越し前。そこから新年、松も取れて、初雪も都内に残る寒のうち。
 意識が戻らなくなってからの20日間は、毎日顔を見に行き、その日々の出来事を声掛けしながら、義母をはじめ皆、心の構えをし、どのタイミングで、近しい方々への連絡をするかなどはかりながら、ただ、人のいのちの在り様を、医療の中で考える時間でした。
 万が一の覚醒があったとしたら、86年の体力がそれを起こせられるか、くらしはどのようになるのかも想定はするのですけれど、幾本ものチューブに繋がれ、呼吸ですら機械的というには、あまりにも機械によって送られているだけの、身体。人の意識の在りか、魂とは。そしていのちとはを、病室という中で家族として看ながら、また考えているそれぞれ。そして、日常は進んでいく時の刻み。
 閉ざされた、固定された空間で、計器の立てる音と、送り込まれる空気を表すモニター。数字で明かされていた生存。
 静岡の浜辺の、農家の七男として生まれ、帰る道のない人間魚雷の訓練を受けながら、生き残った敗戦。東京に出て、働き子供を育て、仕事を終え。その故郷は今は原子力発電所を津波から守るため、より防波堤を高く作るところとなってます。
そういう義父の生きた時間は終わり、通夜・告別式も終了したのです。

2 件のコメント:

余情 半 さんのコメント...

ご冥福をお祈りいたします。

増田・大仏・レア さんのコメント...

余情半さま
ありがとうございます。太平洋戦争が、私の中で一つ遠くなってしまいました。