2017年10月13日金曜日

千代田PA



 先日、いわきを中心とした福島被災地ツアーの帰りは、車中の寛ぎ時間を経て休憩が夕方の千代田パーキングエリアでした。高速降りたところは、歩いて閑居山にまで帰れるところ。カメラの電源無いから写真は撮れないし、。。恒岳先生の絵葉書の秋があったかな。
このところ、神奈川で開催される、父とマハラバ村の写真展の説明文作成中の福島行だったので、なおさら高速を降りていきたい、様々に昔を確かめたい人たちが居る。と、そんな事を思いながらでしたが、山梨の文庫に戻ったところ、恒岳さんの恋瀬山荘から、硲杏子さんから昨年のお約束ということで、母に由来する、閑居山からの水仙の球根が箱にぎっしりと贈られてきました。なんという嬉しいことでしょう。上手く山梨にも根付いて欲しいです。もう元の地には生えていないかもしれないものです。
硲さんは、園芸上手。昨年山荘を見せていただいた時も素晴らしかった。あの時は、恒岳先生もご健在で一緒にワインを楽しんだのに。小幡の秋の絵をアップさせてもらいます。今年の秋は、そして来春は、季節を彩るのは何でしょう。

 そして、一緒に語った画廊「橋」の事。住井すゑさんの息子さんと、父と恒岳さんは同じ学窓で、そんなご縁もあった茨城の風景。母の持っていた「水平社宣言を読む」をあらためて読んでみるのです。一世代、二世代前の人たちに、顔向けできるような腹構えが私にあるのだろうか。。ただ故郷恋し、母恋しと言っているのでは、意味もない。


2017年9月22日金曜日

秋彼岸になって


 やっと、今年の曼珠沙華は咲きだしました。子供のころは、ちょっと敬遠していた花。
故郷ではお墓に咲く花と言われていたり、緑の茎から突然長い蕊を立てた花びらが反り返る姿は日陰でみると、妖しいというよりおどろおどろしくも感じていたのです。
 その頃は、じゃあぼという葬儀はまだ縦棺の土葬でもあり、村の中の墓場に行列を作って人々が歩いていくのを、学校帰りに見たりして、閑居山とは違う、葬式宗教というのがあって、異界もあると感じたのかもしれません。
 2011年の春の彼岸には、文庫番の家には墓が無いと書いたのですが、今では家から歩いていける墓所に四柱の骨を納めてあります。相変わらず父の墓は、閑居山全体という兄の考えのままのようです。形にとらわれるものではないとした父の考え方を、正統に受け継いでいるのは、やはり兄の考えなのです。そしてどうしても社会と相いれない行動をしているように取沙汰される事も、読み解けば理解できる事なのですが、翻案者がいないと通じないままでしょう。
  写真展パネルの説明文を書かなければと思いながら、なかなか書き進まないのです。文庫番は、兄がどのように父の事を、そして母の事を考えているのかをゆっくりと話し合いたいと思うのです。同じ父母に対しても受け止め方は違うのは当然だから、それぞれが補完できれば、お互いが楽であるのにと、一つの事実というものが語るものの立場で異なるものなのだからと、機会のない照合を残念に思っているのです。
 現在の文庫番には、小さいころには不気味でもあった彼岸花、曼珠沙華が律儀にお彼岸をたがえずに咲くことにこころが休まるのです。励まされる力をいきなり、土の中から宙に放っているごとくにも見えるのです。
 自分の姿で、賢明に生きて行こうとするときに、多くの人が力を差し出してくれるのだと、学んできたのでした。

 文中、書き足し

2017年9月16日土曜日

角出せ


 幼いころから親しんでいた、ドリトル先生漂流記に大きな海カタツムリの殻にドリトル先生の一家?が乗り込んで航海をする巻があったのを思い出したのは、雨上がりの芝生に大きなカタツムリを見たからです。
 どういう種類なのかよく解りませんが、この近辺には居るようです。
家を背負ってその生涯を生きていくのですね。実家とか婚家とか出家とか、考えなくてもいいのでしょう。
 知人が、またその知人から兄からの連絡があったけれど、公衆電話だったらしくすぐ切れてしまったという事を教えてくれました。電話のあるところに居るのでしょう。私にはもう連絡するつもりがないのか、どうかも解りません。
 何を背負ってしまったのか。自身と一体のものが、生きている間は離すことができないのです。その心の中を推し量る事もできないのですからしょうがない。
 ドリトル先生は、ほぼ万物との会話もできて、こころを推し量る事も出来た物語でした。

2017年8月10日木曜日

あゆみに・・


 ピースウォークの絵葉書。虹の旗の9は、亡き母の誕生日の8月9日の9?届きましたが、枇杷の成った父の電話のお話が書かれていて、どなたからなのか推量中。
 そして、深夜になって、二つのテレビ番組を観るのです。
 「満蒙開拓団の女性たち」「原爆の絵”は語る~ヒロシマ 被爆直後の3日間~」
次世代と、ともに考えたい事なのですね。
 ただ、語り始めたのではない、ただ記録を辿るのではない、それは、次の時代には繰り返すことがないようにという願いがあって、語るのですね。
 あゆみは、続くのです。

2017年8月6日日曜日

芝が伸びて


 鋏を置いてあるあたりの芝は神立の母のアパートの窓の外から持ってきたものです。ここでもともと生えていた芝も、砂利と選り分け雑草を抜く年月がもう5年目。
 芝生の拡がった庭になりました。写真展の合間に、お客様のお迎えができるように、刈り揃えて、また雑草を抜いて、母の芝ともともとの芝はすっかり混じっているようです。
 青い芝を思いながら、閑居山から移した芝を守ってきた母。もう数日でその誕生日になります。
 このところ、数人、閑居山に居た人達の不調を聞いています。また周辺で助けてくれていた知人も、年をとって来て不調なようです。もちろん自分もまた年をとっているのですけれど。。
 芝生も手を入れると、それなりに伸びます。父の写真に原爆ドームと写っているのがあったのも、資料の整理の中で分かった事でした。関西での障害者と健全者の大交流会。と横幕のある写真。その年度が知りたいと問い合わせていますが、お返事待ち。
 その交流の日程で考えると、何年前かの8月6日。父はあの頃の同志たちと、仲間たちと、行っているのです。
 不調の伝わってくる人たちの、今の社会を、そして運動を歯がゆく思っている気持ちをまた、私は記録していかないと。

2017年7月23日日曜日

マハラバの贅沢


 先週のあったかキャッチボールの皆さんからいただいたお花が、この暑い中にも関わらず良くもっていてくれます。すべての蕾が開いて、最終週になる日曜日にも飾る事ができました。三つの花がそれぞれの向きで綺麗です。
 本日は、午前中の一番に以前閑居山に居た人もご来客。そして、あれよあれよと出入りが続きましたが、その対応があり、甲府駅までマハラバ文庫の目印を持って連れ合いに迎えに、出てもらいました。
 島根から飛行機でわざわざこの写真展に来られたのは、今年の三月に「障害者自立思想の一源流ー『青い芝の会』の宗教思想をめぐって」の論文を発表された、山崎さん。そしてもうお一人が「マハラバの息吹ーもう一つの1960年代」を書かれた藤井さん。
 この二人と、閑居山に暫くいた人と三人が、それぞれを補い合うお話をされているのを耳にしながら、はじめて写真展の記事から見に来られたと言う土地のご婦人のお話の受け答えをしたり。
 それなりに慌ただしい日になりましたが、この写真展企画を通じて、あらためて「生きる場を与えられた」という言葉の理解ができたことの説明をします。
 それは山の中にあった共同生活の場のみをさすのではなく、父が青い芝の会の学習旅行で行った各地の意味を読み取ると、そこで訪れている社寺仏閣を観光なり参拝として、脳性麻痺の彼らと行っていたのでは無いと言う事。父の書いたものと、その思想の体系と照らし合わせて、その学習旅行の行程の中の訪問先の由緒、由来にある歴史、地域社会の信仰の中で人間社会の内なるものとして、障害を持つもの、またはその顕われとしての神格などが位置づけられているのであるかを、解いていたのです。現場教育という言葉もありますが、まさに目に見えるもので、その地域を学び、人の社会、歴史の中で息づいている在り様が、語られたことで、ともすれば、技能工芸を中心とした特別支援(今風)教育だけでは、競争社会の中での順位にしかならなかった(今は違うのかもしれませんが)ことに不満足だった、脳性麻痺の人達、障害者の人たちが、人の社会、そして歴史の中で、「生きている場」の実感を学んだのです。
 写真を引き伸ばし展示しキャプションを付ける作業をしながら、私に理解できたこと。それは、マハラバの意味であり、読み取る事の出来た贅沢でもあります。「無縁の地平にー大仏照子の生涯」で書いた誰もが生きていく精神的支柱を求めて・・・という内容が写真展の中でも影照していたのです。
 そういう豊かな深い流れがあったことを、私は今までの累々たる弔いへの供養であると7月26日を前に思うのです。
 本日の来訪の方々にも、いろいろと説明したかったことの第一でした。
 
 

 

2017年7月21日金曜日

写真展 山梨の新聞で取り上げられました

地方版ですがhttp://www.sannichi.co.jp/article/2017/07/21/00209398若い記者さんの取材でしたが、このように掲載されました。
お問い合わせを文庫に頂けると、いろいろと、また資料的に確認できますので、写真にお心当たりの方々ご連絡お待ちしています。