今年は、お盆のお供えにSANYO堂の桃缶。
なんと、これがパルシステムの商品案内に出るとは。早速購入し、亡き母にも報告。もっとたくさんの事を報告しなければならないのだけれど、一番に伝えました。
でも、母はお仏壇には入っていないのですけれどね。まあ、逝った人たちは皆、いつも私と語らっているのですから。
父、大仏尊教は、母方の澤山の家の人たちが二代に渡って逸見山陽堂さんに勤める人たちだったので、いつも身近にあった缶詰。そして、今思いめぐらすと祖母と祖父の縁も、たぶん、谷中村への援助の関係だったと考えられるのです。祖父は私が4歳の時、祖母は、私が6歳になってすぐに亡くなっているので、その事情を聞いたことはないのです。富山生まれの祖母と茨城生まれの祖父が、東京で出会ったのであれば、逸見斧吉さん周辺の、田中正蔵に関わる人たちの端だったように考えると辻褄があってきます。
子供の頃は風邪をひくと、この桃缶だけが、喉を通って。あの頃も茨城の山寺にいつも有ったのも、そう言う訳だったのでしょう。
父が、伏した時にも「照子さん、山陽堂の桃缶が食べたい」と言われて、母は、石岡中の店を探したけれども置いて無くて、と話していたのでした。父の一周忌には、私から山陽堂さんにそのことを手紙で書いて、そしたら、大叔父の部下であったと言う方から、届けられたものを、母と私の手作りの法事の食事に添えたのでした。
その法事の最中に、修行中なので戻れるものでないと考えていた兄がいきなり現れて、それからは、法事の始末どころではなくなり、私からはお礼の手紙をまた出した記憶は無いのです。
そのような経過も、いつかは書いて置かなければとマハラバ文庫はあるのですが、父の書籍目録と、講義テープ起こしができたことを一つの区切りとし、2007年に立ち上げた株式会社と言う形は解散して、もう少し身動きのできるものへ変える手続きを始めました。
父の洗礼日が8月15日。株式会社マハラバ文庫の設立日も同じ。